作詞 北見志保子 作曲 平井康三郎 1.人恋うは 悲しきものと 平城山に もとおり来つつ 堪え難かりき 2.古(いにしえ)も 夫(つま)に恋いつつ 越えしとう 平城山の道に 涙落としぬ
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「人恋うは悲しきものと平城山に もとほり来つつたえ難かりき」「古へも夫に恋ひつつ越へしとふ 平城山の路に涙おとしぬ」。これは、1934年、北見志保子(1885〜1955)が盤之媛命陵をテーマに詠んだ7首の短歌の内の2首である。志保子と同郷の平井康三郎が、翌年「平城山」の題名で曲をつけたところ大ヒット、永遠不滅の歌曲に。 志保子は、北原白秋にも師事した高知県出身の歌人だが、たびたび奈良を訪れたようだ。この詩は、盤之媛命陵の辺りをさまよって、フランスに留学中の恋人への想いと、盤之媛の離れて住む夫、仁徳天皇への想いをダブらせて詠んだといわれている。 「平城山」とは、京阪奈丘陵の一角、つまり、京都盆地と境する奈良盆地の北側丘陵をいう。西半分が佐紀山で、二重堀に囲まれた盤之媛の平城坂上陵などの佐紀盾列古墳群、東半分が佐保山で、光明皇后や元明・元正・聖武の各天皇陵よりなる森である。 http://www.keihanna-plaza.co.jp/08local_ic/keihanna_hatsu/25th/fukei/fukei.html |
北見 志保子(高知県出身、1885−1955) 明治十八年、宿毛村土居下川島淳一郎の長女として生まれる。本名川島朝野。宿毛小学校の教員をへて文学勉強のため上京、多くの短歌を歌誌や歌集に発表した。平城山を詠ったこの歌で歌人として有名になった。昭和二十四年に歌風や結社を超越した「女人短歌会」を結成し、その同志とともに「女人短歌」誌を発行して志保子がその代表者となる。また女流歌人の育成に尽力し、宮中歌会始の陪聴者ともなって、当時の女流歌人の第一人者として業績を残した。昭和三十年病没。年七十歳。 明治18年(1885年) 宿毛に生まれる。本名 川島朝野 明治38年(1905年) 宿毛小学校教師 明治39年(1906年) 文学の勉強のため上京 大正14年(1925年) 歌誌「草の実」創刊 昭和3年(1928年) 歌集「月光」出版 昭和9年(1934年) 小説「朱美作品集」出版 昭和10年(1935年) 「平城山」「磐之媛皇后御陵」を発表 昭和25年(1950年) 「花のかげ」出版 昭和26年(1951年) 宮中歌会初めの陪聴者 昭和30年(1955年) 死亡(70歳) 以上は、 http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/great/kita-1.htmlおよび http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/rennmenn/sihoko.html による。 なお、更に詳しくは次の「うたのうらばなしU」を参照されたい。 (http://www.asahi-net.or.jp/~qx9k-izw/izawacchi.uta2.htm) |