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浜辺の歌
作詞 林  古渓
作曲 成田 為三
1.あした浜辺を	彷徨えば
  昔のことぞ	しのばるる
  風の音よ	雲のさまよ
  寄する波も	貝の色も

2.夕べ浜辺を	回(もとお)れば
  昔の人ぞ	しのばるる
  寄する波よ	返す波よ
  月の色も	星の影も

3.疾風(はやち)たちまち	波を吹き
  赤裳の裾ぞ	濡れひじし
  病みしわれは	すでに癒えて
  浜辺の真砂	まなご今は
1916年(大正5年)

 作曲は秋田県森吉町出身の成田為三(1893〜1945) 。東京音楽学校在学中だった成田が、 大正2年(1913)8月、牛山充(みつる)主宰の雑誌「音楽」に教材用として掲載された林古渓(1875〜1947) の詩「はまべ」に、曲をつけたのが きっかけで、大正7年(1918)9月楽譜が発行され世に知られるようになった。
 この曲の舞台はどこか、という疑問がよく話題にのぼが、実は、林も成田も生前にこの謎についてのヒントを残して いかなかったそうで、成田の故郷、米内沢の「阿仁川のほとり」、岩城町の「道川海岸」、能代市の「能代浜」など秋田県内の 海岸や、他県では、佐賀県唐津市の「虹ノ松原」なども候補地として名乗りをあげているとか。(これは、おそらく作曲者の 成田為三が音楽学校卒業後に佐賀師範学校に勤務したことから言われているのであろう<森田 注>)。有力な候補としては、 成田と音楽学校時代の同期の歌手、後藤ヨシが、「岩城町の療養所に友人を見舞った成田が、月見草の咲く道川海岸を見て 曲想を得た」と語っているそうだが、もはや正解は遠い海の彼方にあるようだ。
(なお、「林古渓が幼い頃湘南海岸を歩いた 折りの追憶をうたったものだそうです。」と述べているのはKazuhiko Okadaさん http://homepage.mac.com/okadakazuhiko/Personal9.html。さらに、「神奈川県辻堂東海岸を歩いた時の情景を歌ったものと 言われている。」と記しているのはhttp://sakykun.oops.jp/midi/C31_16.htmの作者(フルート奏者らしい))

 この歌に関わる友情のエピソードがある。十和田湖の南の小さな町、毛馬内の油屋旅館には、 山間の一軒宿にはおよそ不似合いな1台の古びたピアノがいまも置かれている。このピアノ、この旅館の創始者・大里健治 が1927年、成田のために注文したピアノで、町民たちに「浜辺の歌のピアノ」と呼ばれ、親しまれていたものだった。
 かつて成田は、作曲家になるのを夢みたものの、両親に反対され、やむなく選んだのが教師の道。赴任してきたのが、 ここ毛馬内の学校。音楽教育にうちこんでみたものの、あまりの熱心さゆえ、「変わり者」のレッテルをはられてしまう。 そんな成田が唯一心を許したのが、大里健治であった。内気で口下手な成田が音楽への思いをとつとつと語り、 そして音楽好きの大里が励ます--そんな交際が約1年続いた後、成田は音楽の夢を捨てきれず、東京音楽学校の試験を受け、 旅だっていった。2年後、東京の成田から、大里のもとに手書きの楽譜が届いた。1枚目に「敬する大里様へ」と 書かれた楽譜は、「浜辺の歌」の第一稿だった。楽譜を見た大里はそのすばらしさに感動し、地元秋田でもぜひ演奏会を、 と考え、1927年、それはついに実現した。ところが毛馬内には当時、ピアノなど一台もなく、そこで大里は急遽、 東京の業者に成田が弾くピアノを注文した。当時なら、家2、3軒は買える値段のピアノに町民たちは驚き、 そして成田自らが弾く「浜辺の歌」に酔いしれたということである。
 1988年、米内沢に「浜辺の歌音楽館」が造られた。大里の受け取った第一稿は寄贈されたが、ピアノは 「父があれだけは手放せないといってました」と、息子の耕筰さん(成田が師事した、山田耕筰の名前をもらった)が 手離さなかったそうだ。2人の友情の証であり、あのメロディを成田自身が奏でたピアノ、もし秋田に行く機会があったら、 ごらんになったらいかがでしょうか。
(http://plaza26.mbn.or.jp/~ikebe/raum/monthsong/august.htmlによる。)
林古渓(はやし こけい) 明治8(1875)〜昭和22(1947)
  林古渓は、明治8年に東京神田に生まれた。 本名・竹次郎。少年時、池上本門寺に入り修行したが、のち、 寺門を出て哲学館に入学。明治32年に教育学部を卒業した。以後、私立京北中学校で長く教鞭をとり、 のち松山高等学校講師、立正大学教授を歴任、東洋大学でも漢作文を講じた。また、明治30年代の「新仏教徒同志会」の運動に活躍し、 『新仏教』の編集に従った。小見清潭の淡社に属し、詩誌『漢詩』を編集、晩年自ら清白詩会を開き、 詩誌『清白詩艸』を刊行した。
一方、大正8年頃から古渓歌会をおこし、歌誌『わがうた』を主宰、最晩年に至るまで続いた。 なお、若い日の歌謡「浜辺の歌」(成田為三作曲)の作詞は、広く知られている。   主な歌集には、『わたくしの母』(大11)・『わが歌千首』(昭3)などがある。
(「東洋大学の文人の系譜−歌人編」から。http://www.toyo.ac.jp/enryo/htmls/b-html/13panel-01.htm#による)


【蛇足】
 この歌の3番の歌詞については、1番、2番と比べてかけはなれていて、作詞者が何を言いたいのかよく判らないという声が多い。 一橋大学のグリークラブであるマーキュリー・グリークラブのホームページでもこれが話題となっていたので、ポイントだけを 以下に紹介する。

○岩波文庫「日本唱歌集」(堀内敬三・井上武士編・昭和33年12月発行)の206ページに「浜辺の歌」が載っていますが、 2番までしか載っていません。 注記がありますのでそのまま記載します。
 「この作品はもと3節のものとして作曲されたが、作詞者は第3節が原作の趣を失っているものとして、同節の歌われることを 望まなかった。原作は多分、4節から成り立っていたが、作詞者自身、はやくその手控えを失い、再案に至らなかった。 以上著作権者からの申出に従って、ここには第1、第2節の歌詞のみ掲げた。」

 なお、用語についても以下の解説が参考になろう。
 ぬれひじ・し・・・ぬれひず[濡れ漬づ][自四・上二]{古くはヌレヒツ}の活用形。意味は「ぬれてびっしょりとなる」
 まなご・・・@砂の細かいもの。真砂。A愛子。いとし子。
(MGC、マーキュリー・グリークラブのサイト http://www.mercury.ne.jp/mgc/kenkyu/hamabe_uta.htmlによる)