作詞 堀 内 敬 三 作曲 A.ドボルザーク |
1.遠き山に 日は落ちて 星は空を ちりばめぬ きょうのわざを なし終えて 心軽く 安らえば 風は涼し この夕べ いざや 楽しき まどいせん まどいせん |
2.やみに燃えし かがり火は 炎(ほのお)今は 鎮(しず)まりて 眠れ安く いこえよと さそうごとく 消えゆけば 安き御手(みて)に 守られて いざや 楽しき 夢を見ん 夢を見ん |
1946年(昭和21年)
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19世紀に活躍したボヘミヤ出身のドボルザークの代表的名曲、交響曲第九番「新世界より」の第二楽章の有名な旋律に詞をつけたもので、
「遠き山に日は落ちて…」で知られる「家路」の歌詞は、第二次大戦後まもない1946年に、堀内 敬三 氏が発表したもの。その後この詞は、ドヴォルザークの旋律の魅力ともあいまって、日本中で広く親しまれてきた。 ドボルザークは1982年アメリカに招かれ、ニューヨークの国民音楽院の院長として4年間滞在した。1983年の夏休みに、ボヘミヤ地方からの移民が多いアイオワ州に出かけ、この曲を書き上げた。祖国への郷愁が強く滲み出た美しい旋律である。 【とっておきの話】 宮澤賢治が、同じこのドヴォルザークの交響曲第九番「新世界より」の第二楽章の主題に、自分の詩をつけて「種山ヶ原」として歌っていた時期は、少なくとも1924年夏にまでさかのぼることができる。当時の友人 斎藤 宗次郎 氏の自叙伝によると、この年の8月27日の項に、「農学校に立ち寄り宮沢賢治先生の篤き好意により、職員室に於て蓄音機によれる大家の傑作を聴いた、最初先生の作詞を New-World Symphony の Largo の譜に合せて朗々と歌うを聴いた実に荘厳なものであった」と記されている。堀内 敬三 氏に先立つこと20余年、賢治はこのメロディーを日本語の歌曲として歌った最初の人だったのではないだろうか。 海外に目を転じると、ニューヨーク国民音楽院でドヴォルザークの同僚だったW.A.フィッシャーが、この美しい旋律に歌詞をつけて歌曲「Goin' Home」として発表したのは、1922年のことであるが、 当時の賢治がはたしてこれを知っていたのかは不明であるが、おそらく知らなかったであろう。とすれば、太平洋の両側で、独立してほぼ同時に、ドヴォルザークの同じ旋律に作詞した歌曲が生まれていたのではないだろうか。 (http://homepage1.nifty.com/ihatov/midi/tane.htmによる。) 【追記】 同じ旋律に野上彰作詞の「家路」があり、関心のある方は次のサイトで確かめられたい。http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/ieji.html |