戸神代官屋敷

入間郡越生町龍ヶ谷、宮崎家 




 奥武蔵の名刹龍穏寺近くの龍ヶ谷は、100石の御朱印寺(注)としてこの付近を領していた

龍穏寺の寺領で、この地の宮崎家が郷代官を務めていました。ただ現在の宮崎家屋敷は無住のよ

うで由緒ある建物なのに大分荒れているので、一刻も早く文化財に指定して代官屋敷として整備

保存される事が望まれます。



    戸神代官屋敷


 建物右手の土間の入り口とは

別に正面に式台のある広い玄関

を設けていて、ただの豪農屋敷

とは違う代官屋敷の格式を覗わ

せます。左手には池が残されて

いるので、それに面した部屋が

座敷なのでしょう。







   屋敷入り口の石垣


 この石垣の中が屋敷地ですが

屋根が見える主屋との距離から

も分かるように、広い庭園が築

かれていた様です。平らな耕地

の少ない山間の村で、陽の当た

る場所にこれだけの敷地を構え

ていた事からも、格式のある屋

敷だった事が覗われます。



注・・・徳川家は三河時代に一向一揆などを経験しているので、関東に移ってからは有力寺社に

  朱印地を与える事で、その地の人心を掌握するとともに寺社の管理をも図ろうと考えたよう

  です。この付近の他の有力寺社でも都幾川の慈光寺が100石、越生の法恩寺が20石の朱

  印地を与えられていましたが、龍穏寺の場合は、特に全国の曹洞宗寺院を管理する役割と共

  に10万石の格式を与えられていました。