烏 山 城 址

栃木県那須烏山市城山 同市中央 




 烏山城を築いたのは源平合戦の那須与一で知られる那須氏で、戦国時代から徳川中期までは

改易と再興を繰り返していたのですが、最後は一千石の旗本として明治に至ったそうです。そ

のような訳で江戸時代の烏山城主は度々変り、最後は大久保氏が城主となって8代続き、明治

を迎えました。

 現在の烏山城址は、山頂部の本丸や二の丸などの空掘や石垣が良好な姿で残り、麓の三の丸

跡も石垣がそのまま残っていて、平野にあって保存状態の悪い城址が多い関東では、珍しく見

応えのある城址です。ただ山城だったので江戸時代の中頃に山城禁止令が出ると、千葉の久留

里城などと同様に城山の麓に三の丸を築いて、ここに御殿を建てて居館とし実質的な本丸とし

ていました。明治になると廃城となったのですが、建物は火災や大雪による倒壊に見舞われ消

失してしまい、唯一裏門だけが市内の民家に移築され残されています。


    本丸下の石垣


 三の丸跡の寿亀山神社の参

道の脇から、七曲り道と呼ば

れる急な山道を登り、車橋跡

を渡って行くと本丸正門跡の

右手に残されています。







    本丸跡の土橋


 山頂の本丸跡の奥に、戦国

時代の本丸であった古本丸が

続いていて、その曲輪を隔て

る空掘りに掛かる土橋です。

ただ元々は木橋が掛かってい

たのだと思います。







    三の丸の石垣


 寿亀山神社の参道の右手に

築かれていて、石垣も当時の

ままに残されています。また

石段上の社殿等のある境内も

三の丸跡だったようです。






     三の丸跡


 三の丸跡は現在梅林や神社

の境内となっていますが、こ

の入り口が当時からの入り口

なのか不明です。というのも

枡形の跡が無かった為で、城

郭造りではなく単なる武家屋

敷の造りになっていたのかも

知れません。(注1)






    烏山城搦手門


 高麗門形式の立派な門で市

内野上の国道沿いの民家の入

り口に移築されています。

 移築と共に屋根や門扉が低

く改造される城門の多い中で

今も当時のままの威容を見せ

ていて、市の文化財にも指定

されています。


注1・・・

 江戸時代には城にも格式が定められていて、国主、国主格、城主、城主格、無城(陣屋)とい

うように城主の禄高や家柄により分けられ、城の造りもその格式に応じた造りとするように定め

られていました。ただし城主が変る事も多くその都度改築するわけにも行かないので、必ずしも

厳格に守られていた訳ではないようでしたが、特に関東の城の場合は、先の山城禁止令や石垣や

天守のある城が少ない等、城造りに対する制約が多かったようです。

 烏山城の場合は城主格という事で、本来は陣屋の造りで格式だけ城に準ずるという位置付けで

三の丸も陣屋の造りに則した規模だったようです。栃木県全体でも、城主の城は宇都宮と壬生と

大田原の三城だけで、あとの城は基本的に陣屋造りの城だったようです。






 一つ上 ” 関東の城を巡って 

 表 紙 ”小さな旅と四季の風景 ”へ