前章でも紹介したように、戦国時代の天守閣は関東でも江戸城以外にいくつか存在していた事が当時の
文人墨客達の紀行文からも窺えるのですが、それでは江戸城の「静勝軒」と並び称された高閣「万秀亭」
があった城とは、いったい何処の城の事なのでしょうか? 実は未だに断定されるには至らず、日本城郭
大系では八王子の高月城ではないかとされていますが、紀行文等を調べてみると、どうも違うようなので
以下に推論してみたいと思います。
なお「大石氏の引又の城」というのは便宜上の名前で、紀行文の中では単に「大石信濃守の館」と書れ
かています。そもそも引又とは志木市にあった地名ですが、志木市は舘村と宗岡が合併してで出来た町で
引又は舘村の小字だったのですが、そこに城は存在しませんでした。ですから引又の城というのは、誰が
何時頃から呼称したのか不明ですが、不適切な命名だったように思います。
まずはその紀行文を紹介しますと、一つは文明17年(1485)に、関東に下り関東各地を巡遊した
萬里集九の詩集「萬秀斎詩序」で、集九は詩作に長けた文人として太田道灌に迎えられると江戸城内に居
を構え、その後しばらくは付近の豪族館に招かれては交友を広め、その中に「大石信濃守の館」にあった
高楼からの眺めを漢詩に詠んでいます。「万秀亭」という名も集九が名付けたとされ、詩文の中で、館の
高楼からは「西に富士が見え、東は霧に霞む程遠い、南は松原と平野が続く、北東に湖水や筑波山が見え
る」と記しています。
次に文明18年(1486)の冬に武州大塚の十玉坊(現在の志木市幸町)に滞在していた道興准后の
「廻国雑記」には「ある時、大石信濃守の館に縁あって遊びに行くと庭先に高楼があり、興に乗じて登る
と遠景に優れ、数千里の江山眼の前に尽きぬのおもほゆ」と記され、さらに七言絶句の中に「遠近江山分
幾州」と詠んでいます。意訳すると「遠近の山河が幾つもの国を区切っている様子が見える」という事で
おそらく丹沢や奥多摩や奥秩父、さらに遠く筑波や上州の山まで見えたのでしょう。
これらの情景から考えを巡らすと、引又の城は日本城郭大系に書かれているような高月城ではないと思
われます。高月城は多摩山地の東の端に位置しているので東方平野の眺望には優れていますが、すぐ背後
にはさらに高い峰々が連なっているので、富士は無論の事、国境の奥多摩や奥秩父の山々は見渡せないと
思うのです。これが推測なのは、私も高月城の本丸台地上に登ってみたのですが、木立が覆い茂っていて
周囲がまるで見えなかったからですが、少し離れた麓から周囲の山々を見渡すとそのように思われます。
さらに北東は秋川と多摩川の合流点がありますが、その先に湖水など(多摩湖・狭山湖は近世の人造湖)
はありませんし、また南も後に滝山城を築く事になる加住丘陵が迫っていて平野ではありません。これら
の事から、集九の詩文が高月城からの眺めを詠んでいるのでない事は明らかだと思います。
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