大田道潅の天守閣
江戸城初代天守閣の静勝軒
初代の江戸城天守閣は大田道潅が建てた望楼式の櫓建築で、「静勝軒」と呼ばれ後北条時代もその まま存在していました。当時の楼閣としては、既に京都の金閣寺や銀閣寺などが建立され幕府の権威 を象徴していたので、この静勝軒も軍事的な望楼というよりも、城主の権威を示す象徴的建物だった ようです。江戸城以外にも武蔵国守護代として多摩地域に勢力をはった大石氏の引又の城(八王子の 高月城との説もありますが、埼玉県志木市の柏の城の事との解釈が有力)にも「万秀亭」と名付けら れた高閣があり、さらに寄居町の鉢形城には同様の「随意軒」があったとされています。なお天守閣 (天主閣)という言葉が初めて使われたのは、織田信長の築いた安土城だったとされています。 さて静勝軒とはどのような楼閣であったのかですが、江戸城に入った家康が天下人に相応しい天守 造営に入ると、この楼閣は土居利勝が貰い受け佐倉城本丸に移築し銅櫓になったと言われています。 銅櫓は明治になって解体されてしまいましたが、最上階の屋根は宝形屋根だったそうです。また解体 途中の古写真を見ると、おおまかな形は水戸城の御三階櫓(やはり現存しませんが全体写真が残って います。)に似ていたようです。さらに江戸時代の櫓などとは異なり、道潅時代には四方の扉が吹き 放たれる開放的な楼閣だったそうです。
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