八王子千人同心組頭屋敷

江戸東京たてもの園   




  徳川家康が江戸城を築城するにあたり、甲州街道(新宿通り)の突き当たる半蔵門を搦め手

 門として、もしも城が落ちた場合は半蔵門より甲州街道を一気に走り、八王子から甲府へ落ち

 延びて再起を図る事を想定していたようです。その時に甲州との国境にあり、重要な逃走路と

 なる八王子周辺の多摩地域に、在郷の武士団を配置して平時より警備にあたらせていました。

 そのほとんどは武田氏滅亡後に徳川氏に従って八王子に移り住んだ武田遺臣団で、八王子千人

 同心と称しました。実際の総数は平同心が800人で、多摩周辺の郷士となった上層農家が多

 かったのですが、100人いた組頭は八王子市千人町付近に拝領屋敷のある30表一人扶持の

 士分でした。さらにその上に200石から500石取りの千人頭が10人いて、組頭と同じく

 千人町付近に屋敷がありました。下の武家屋敷は、もと八王子市追分町にあった千人同心組頭

 の屋敷で、平成4年に当地に移築復元されました。




     組頭屋敷


 下級武士の屋敷なので、見

たところは農家のような造り

ですが、座敷には床の間があ

り、また中央の玄関には式台

があって武家としての格式を

表しています。