大 場 家 屋 敷

行方市玉造甲町、大場家屋敷 




 霞ヶ浦北東岸にある玉造町はかつて水戸藩領で、この地の豪農大場家は代々に渡って藩有林を管

理する大山守を任されていました。また大場家屋敷は水戸藩主の領内視察の際の宿泊所にもなって

いて、黄門様で知られる光圀公もこの屋敷に逗留したそうです。その主屋はもはや豪農屋敷の造り

ではなく、表座敷や控えの間などが棟別に建てられた小領主御殿のような造りになっていて、陣屋

さながらの(注1)屋敷になっています。私が行った時には大震災の後という事で残念ながら内部

は公開されてなかったのですが、いずれ再訪して肝心の主屋を見学したいと思っています。



     大場家表門


 長屋門形式の門で、普段は開け

られず正月と藩主が来訪した時に

しか開けられないので、開かずの

門と呼ばれていたそうです。手前

の道は水戸へと続く街道で、山を

背にした一段高い屋敷地に堅固な

構えを見せています。






     大場家通用門


 通用門とはいえ武家屋敷に多く

見られる薬医門形式の立派に門で

こちらは普段の表門として大場家

当主と藩主以外の来客が通ったの

ではないかと思われます。







    主屋の見取り図


 見学できなかったので見取り図

を載せますが、下が南側で藩主の

宿舎となる表座敷の棟と、家人の

居室部分の棟が南北に二列に配置

されています。このような配置の

宿舎は関東では大名陣屋の御殿に

しか見られないものです。


注1・・・

 旧常陸国の北半分となる茨城県の霞ヶ浦以北はかつての水戸藩領で、実際は常陸国の全域ではな

いのですが徳川御三家という事もあり、関東で唯一の国持ち大名の格式を得て35万石の広い領地

を持っていました。同様に領地が広い伊達藩、土佐藩、薩摩藩等の国持ち大名は、一国一城令にも

拘わらず支城を持つ事が認められる場合があり、伊達藩の白石城などが有名ですが水戸藩の場合も

松岡城(現高萩市)を築いていました。さらには例えば伊達藩では「要害」とか土佐藩では「土居

構え」とか呼ばれた非公認の支城を領内各地に築いていたのですが、水戸藩の場合は警戒すべきは

奥州の外様諸藩ですから、水戸城より南側の周辺の村々には、城というより領内巡視時の宿泊所と

なる御殿陣屋を置いていたのでしょう。