旧茂木家住宅

群馬県富岡市宮崎町、宮崎公園内   




 富岡市宮崎公園に移築保存されている旧茂木家住宅は、戦国時代の土豪屋敷の造りを今に伝える住宅

です。戦国時代の茂木家はこの地の豪族小幡氏に従っていて、小幡氏の宮崎城の支城として鏑川の南岸

にあった大山城の城主でしたが、北条氏に属していた為に小田原の役の後は土着して、江戸時代には神

農原の名主を務めていました。

 この住宅の特徴としては、梁が細くて小屋組みも簡素なのですが、それでも棟まで貫通する棟持柱等

はしっかりした柱で、事実500年もの長い年月に耐えてきた(大永7年(1527)の築とされています)

質実剛健の建物となっていて、農家の住宅とは明らかに違う造りをしているようです。(注1)



 この住宅が宮崎公園内に移築される前は、当地より600m南の神農原集落の中ほどにありました。

その茂木家屋敷には今でも土塁の跡と思われる起伏が見られ、周囲には石垣に使われたと思われる石も

残されています。さらに屋敷の北側は水路になっていたようで(現況は暗渠)、石垣で築かれた土塁と

堀に囲まれた土豪屋敷だったようです。



 さらに茂木氏が城主を務めていた大山城は、鏑川の蛇行と支沢に囲まれた要害の山城で、神農原とは

川を隔てて南岸の地に築かれました。しかし茂木氏の所領は神農原の農村地帯でしょうから、この大山

城は常時滞在する居城ではなく、有事の際の詰の城だったのではないかと思います。橋を渡って南岸の

城跡近くまで行ってみたのですが、平時の居館となる根古谷の跡らしき地形は見当たりませんでした。

さらに本城の宮崎城(注2)も平時の居館で、詰の城は西隣りの山上に築かれた神成城とされています

から、大山城に対する平時の居館は上記の茂木家屋敷だったのではないかと思います。(注3)

 左下は鏑川に掛かる吊橋からみた大山城址で、三方を川に削られた断崖上にある事が分かります。右

下は宮崎公園内の展望台から神農原の町並み越しの大山城址で、城址は一番手前の低い山ですが、その

麓は深い谷に削られ後方は険しい山並みが続いています。



注1・・・そうは言っても戦国時代の農家の住宅というのは見たことがないので(おそらく現存してい

  ないのでは?)あくまで推測ですが、手斧の跡がくっきり残る柱や、四角い製材に拘らない梁等の

  大雑把な仕上げを見ると、この家に代々暮らすつもりはなく次の戦の時まで生活できれば良い、と

  いうような荒っぽい家造りを感じさせます。武家の場合は戦が不利になれば居館は焼き払って詰の

  城に篭城する事になりますし、勝ち戦なら加増に応じて居館も大きくするでしょう。身分に応じて

  それなりの造りの館を構えたとしても、戦のない江戸時代と違って細部の仕上げには拘らずに建て

  られたように思えるのです。


注2・・・宮崎城は小幡氏当主の弟が守る城で、現在の西中学校の辺り(宮崎公園の300m西方)に

  ありました。台地の鞍部にはなりますが、今は学校用地となっているように要害の地形という訳で

  はないので、戦のない時の平時の居館(根古谷)となっていたようです。


注3・・・この茂木家屋敷が大山城の根古谷ではないかと思うのは、築年が大永7年(1527)とされてい

  るのも根拠の一つです。小田原の役が天正18年(1590)ですから、豊臣方に大山城を明渡した後、

  土着してから建てた住宅では年代が合わないのです。また大山城と茂木家屋敷は鏑川の深い谷で隔

  てられて一体性が無いようにも見えますが、平時は谷底に簡単な橋を架けておけば済む話ですし、

  いざとなれば北方の神成城と南方の大山城とで神農原郷を囲めるので、宮崎集落に隣接する宮崎城

  のように、神農原集落に近い場所に平時の居館を置いていたと思うのです。