馬 込 城 址

大田区南馬込五丁目周辺 




 馬込城は後北条氏の家臣梶原助五郎の居城であったと伝えられています。付近は住宅地になっ

ていて、郭の正確な位置は分からなかったのですが、居城があった南馬込五丁目の一帯は、比高

10m程の尾根状の丘といくつもの谷が入り組んだ地形になっていて、この丘の何処に(注1)

城があってもおかしくないと思われる地形でした。そして、この丘を遮断するように深く切れ込

んだ谷戸に沿って太田区郷土博物館があるので、休憩がてら寄ってみるのもいいと思います。

近くの満福寺には慶長十一年の碑が入った梶原助五郎のと思われる墓があるのですが、この寺で

は全く時代(注2)の合わない鎌倉時代の武将、梶原景時の墓だと宣伝しているようです。



   城址付近の高台


 正面の森は湯殿神社の社叢

です。また郷土博物館のある

谷戸の北側を西に伸びる丘の

先端となる高台で、この辺り

に本丸曲輪があったのではな

いかと思います。





    湯 殿 神 社


 台地の上は住宅地になって

いて、城址の面影は全くない

のですが、この神社の境内だ

けは木立に囲まれています。

また参道の横にはイチョウの

大木がそびえていていて、古

い歴史を感じさせます。





   切り通しの坂道


 上記の丘の先端部分を切り

離すように、切り通しの道が

南北から丘の上に伸びていて

堀切の名残を思わせます。こ

の坂道の右手が先端部分にな

ります。






丘の上から

郷土博物館のある

谷戸を見下ろす


この谷も深く

切れ込んでいて

堀として利用された

と思われます。



注1・・・中馬込から南馬込にかけて広がる、東西1km南北2kmにも及ぶ丘陵地全域が城地

      だったとの説もあるのですが、これでは戦国大名クラスの居城の規模で、土豪の城館

      としては縄張が広すぎます。郷土博物館のある谷戸から湯殿神社背後の台地に掛けて

      の辺りに、近年までは「根古谷」という地名が残っていた事や、周囲の地形から考え

      て、居館はこの谷戸の北側を西に延びる舌状台地の先端辺りにあったのではないかと

      推測します。

注2・・・慶長は江戸時代初期ですから、戦国時代後期の武将の墓なら時代的に合います。また

      小田原北条氏が滅び徳川家康が関東に入府した後も、そのまま関東の地に土着した北

      条氏の家臣は多くいたそうです。一方、梶原景時は駿河の国で最期を遂げたので馬込

      の地とは何の縁もないと思うのです。昨今は寺院も宣伝の時代なのでしょうが、史実

      をねじ曲げてしまうのは困ったものです。



    アクセスガイド


  馬込城址・・・地下鉄都営浅草線 西馬込駅より東に徒歩約200m(郷土博物館)






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