黒 羽 城 址

栃木県大田原市前田、黒羽城址公園 




 黒羽城は那珂川とその支流の松葉川に挟まれた細長い丘陵上にある平山城で、戦国時代に那

須氏の重臣だった大関氏により築かれました。城地は山城ほどの高低差はないのですが、両側

の自然河川を外堀とする堅固な城で、外様大名の大関氏が明治まで黒羽城の城主で居られたの

が不思議なほどです。というのも関東の地で唐沢山城など要害地形の城に拠っていた外様大名

は、大概は改易になり譜代や親藩大名に入れ代わっているからで、大関氏の絶妙な生き残り術

の為せる業なのかも知れません。(注1)

 現在は二の丸跡に体育館、三の丸跡には芭蕉の館が建っていますが、本丸は井楼櫓と小規模

な御殿風建物が復元されただけで、土塁や空堀などが良好に残されています。また本丸以外に

も、当時の城の縄張りを想像させるに十分な土塁や空堀などが残されています。


     本 丸 跡


 黒羽城は陣屋造りだったの

で天守閣等はなく、本丸には

城主の居館が建てられていた

だけでした。現在の本丸跡は

周囲の空堀や土塁が良好に残

され、土塁上には模擬井楼櫓

が建っています。






    三 の 丸 跡


 三の丸に城代家老の浄法寺

邸がありましたが、松尾芭蕉

は奥の細道の途中で当屋敷に

滞在したそうです。(注2)

その縁で三の丸跡に芭蕉の館

が建てられていますが、木造

平屋の建物で城址の雰囲気に

沿った建物となっています。






    本丸下の水堀


 黒羽城は自然河川に挟まれ

た丘陵上にあるので、ほとん

どの堀が空堀だったのですが

本丸下だけは水堀が残されて

いて、戦国の世から続く堅固

な備えだった事が覗えます。






    移 築 城 門


 市内久野又の不動院大聖寺

に黒羽城門と伝わる門が移築

されていますが、黒羽城の何

処の門だったのかは判らない

ようです。(注3)



 注1・・

 大関氏の主君那須氏は、源平の戦いで名を馳せた那須与一でも知られる平安時代からの名家

で、那須地域を支配していましたが、戦国の世も終わろうとする小田原の役の時に豊臣秀吉の

招集には応じませんでした。そこで重臣だった大関氏と同じく重臣だった隣領の大田原氏等は

独自に小田原へ駆け付けました。その結果、小田原に駆け付けた両氏は大名に取り立てられた

のに対し、那須氏は領地を減らされてしまいました。さらに関ヶ原の戦いの時には那須氏も大

関氏も東軍について上杉や佐竹の動向に備えたので旧領安堵となったのですが、那須氏は江戸

時代のお家騒動で改易となってしまい、最後は三千石の旗本にまで衰退したそうです。


注2・・

 浄法寺邸については黒羽藩家老浄法寺邸として別章で紹介していますが、当地に滞在していた

間に多くの有名な句を残したそうです。


注3・・

 この門の柱の数や小屋組みの様子から、元は楼門か櫓門、あるいは長屋門などだったように

見えます。天保八年に描かれた黒羽城の絵図を見ると、そのような形式の城門は大手の黒門か

本丸虎口の廊下門だけのようなので、この二つの門のどちらかだったかも知れません。しかし

城内の仕切り門だったとしたら、絵図の中にも上級家臣の屋敷門と思われる長屋門がいくつか

あるようなので、やはり何処の門だったのかの特定は難しそうです。






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