水戸藩校弘道館正庁、他

水戸市三の丸、弘道館 




 江戸末期の天保9年に徳川斉昭が水戸藩の藩主になると、藩政改革の一環として人材育成の

重要性から水戸城三の丸内に藩校の弘道館を建てました。ただ開校した時が幕末だったので、

明治初頭の廃藩置県により約30年ほどで廃校となってしまいました。水戸藩が廃藩になった

後は、建物が他藩の藩校に比べて立派な事が幸いしたのか、取り壊される事なく県庁舎や学校

等に流用されて現在まで残りました。

 さらに先の大戦の空襲でも水戸市内で多くの被害が出ましたが、弘道館の主要建物の正庁等

が被害を免れたことは更なる幸いでした。現在は正門と正庁と至善堂の三棟の建物が国の重要

文化財に指定されています。


     正   門


 四脚門形式の門で弘道館創建

時に建てられたままの門です。

この正門が開かれるのは、藩主

の来訪時の他は諸行事の時だけ

だったそうです。幕末の動乱を

見てきた門で、柱には藩内抗争

時の弾丸の跡があります。






     正   庁


 弘道館の中心となる建物で、

藩主が臨席して試験が行われた

正席の間を中心に、番頭詰所や

諸役会所等いくつもの部屋に分

かれています。藩主も臨席する

という事か、ただの藩校の建物

というより本丸御殿かと思うほ

ど立派な建物です。







     至 善 堂


 藩主が諸行事に臨席する時の

休息所となった建物で、正庁と

は別棟ですが大廊下で繋がって

います。また最後の将軍慶喜が

明治維新で江戸城を出たのち、

この至善堂の御座所で謹慎生活

を送りました。







      孔子廟正門


 弘道館の敷地を出て、北側に

回り込むと孔子廟があります。

本殿は先の戦災で焼けてしまい

戦後の再建ですが、この正門は

檄門と呼ばれ、創建当時のまま

の建物です。ただ孔子廟は普段

は非公開のようです。





   弘道館北側の土塁


 弘道館は城内三の丸にあるの

に、さらに弘道館の周囲に土塁

と堀が築かれています。藩主が

弘道館に来訪する事がある為で

しょうが、湯島聖堂や足利学校

も同様な構えなので、何か共通

点があるようです。(注)



注・・・湯島聖堂は幕府の昌平坂学問所で、周囲を土塁と石垣に囲まれていたようです。

  さらに足利学校は水堀と土塁に囲まれていて、まさに城館のようです。それに引き換え

  十万石の佐倉藩の藩校成徳書院でさえ、周囲は塀で囲まれていただけのようなので、格式

  の違いを感じさせます。