飯 田 家 長 屋 門

横浜市港北区綱島台、飯田家住宅 




 この長屋門がある飯田家屋敷は、綱島台の丘の北麓に接し、さらにかつては山麓以外の三方を

堀で囲まれていたという、中世土豪館の屋敷構えを残す名主屋敷です。このような豪族館は鎌倉

時代から戦国時代にかけて多く見られ、平時は山麓の居館で生活していても、有事の際には隣接

する山上の砦に立て籠って戦をする事を想定していました。(注1)ただ残念な事に、現在まで

堀が残るのは西側の一部だけですが、この堀越しに見る長屋門は、主屋と共に市の文化財に指定

されたのを機に修復されて、江戸時代なっても開拓名主として当地を支配した飯田家屋敷の格式

を今に伝えています。



    飯田家長屋門


 この長屋門が建てられたの

は江戸時代ですが、門を修復

する時に土台を嵩上げして組

み直したので、目線が上がり

一段と重厚な構えとなりまし

た。(武家門は高さがあるの

も特徴の一つなので。)







    飯田家主屋


 この主屋は明治期に建替え

られたもので、六ツ間取りに

中二階建てと、明治中期頃の

代表的な造りとの事です。

 どうやら豪族館の造りは留

めていないようですが、茅葺

屋根の大きな主屋で、当屋敷

にも相応しい建物です。






    背後の綱島台


 この綱島台の丘は、南側に

は鶴見川が流れ、西側も東側

もその支流に囲まれていると

いう、砦を築くには最適な独

立丘ですが、綱島駅にも近い

ので丘の上まで宅地として開

発されてしまい、遺構などは

残されてないようです。






    屋敷見取図


 この見取り図は明治の中頃

に描かれたもので、右上が南

で左下が北になります。これ

を見ると現在は郵便局と接し

ている屋敷の北側も、かつて

は堀と石垣に囲まれていた事

が分かります。


注1・・・

 このような平時の館と有事の際の山上の砦とが一体となった城館は他にも多く見られ、今でも

ほぼ完全な姿で残るのは群馬県桐生市の彦部氏屋敷があります。さらに今でも環濠が残る栃木県

の足利氏館も背後の両崖山が詰の城となっていました。一方、東京八王子の浄福寺城址も遺構が

残るのは山の上ですが、麓にある浄福寺の境内にも石垣が残されていて、平時の居館になってい

たと謂われています。また大田区の池上氏館跡や中野区の中野城山も、丘の上には遺構が見られ

ませんが、周囲の地形から同形態の城館だったようです。