長谷川家書院

沼田市下沼田、長谷川家 




 沼田市の台地の端にある沼田城は戦国時代からの名城で、真田氏や北条氏等の攻防の舞台で

したが、小田原の役により北条氏が滅んだ後は真田氏の持城となりました。そこで江戸時代に

なっても引き続き真田家が領していましたが、沼田は関東と越後とを結ぶ要衝の地だった為に

関東の要衝を親藩や譜代の大名で固めたい徳川幕府の意向で(注)外様大名だった沼田の真田

氏は程なく改易となり、沼田領は幕府に没収されました。

 その折りに沼田領再検地の総奉行を務めたのが前橋藩酒井家の家老高須隼人で、薄根川沿い

の低地を挟んで、沼田城を見渡す長谷川家の主屋の東側に書院を建てて宿舎としました。その

書院が沼田市の文化財に指定されて、今も長谷川家の敷地内に残されていています。



    長谷川家書院


 書院は8畳二間で上段の間

と控えの間があり、梁の長押

や床の間などの装飾も当時の

まま残されているそうです。

ただ沼田市の文化財になって

いると言うのに表示等がない

ので、しばらくウロウロして

しまいました。

注・・・

 地元の言い伝えでは、沼田真田家の殿様が暴君で領民を苦しめた為に直訴が起こったのを咎

められたとされていますが、どの藩でも多かれ少なかれ起こった話ですし、他にも「三代将軍

家光の弟の忠長が切腹させられたのは暴君だったから」とか、その時々の権力者に都合の良い

話だけが伝わっている場合が多いので、一概に鵜呑みには出来ません。

 この沼田藩が領民に無理な年貢を掛けて領内の石高を多く見せかけようとしたのも、「幕府

が沼田藩の改易を目論んでいるのを察知したので、石高を上げる事で改易を有利に運ぼうとし

た。」という説もあるようです。しかし無理が祟って騒動になったので、幕府としては好機と

ばかりに直ちに沼田真田家を取り潰して、そこで改易後の再検地となった訳です。

 江戸時代中期頃には関東の外様は1万石程度の小藩しか残ってなかったので、沼田真田家も

大人しく改易を受け入れていれば、どこか僻地で生き残る事も出来たように思います。関が原

や豊臣方の大阪城の攻防戦で徳川家をさんざん痛い目に遭わせた真田家は、それでなくても嫌

われていたのですから、関東の要衝の地に居続ける事や、まして替地で加増になるなんて事は

到底無理だったでしょう。