UKを知ろう


中世イングランドに忽然と親鸞の思想 (1)

聖書を火中に投じた異僧



現代でも未解決の政治と宗教の結託

 2003年3月、世界は大きな岐路に立っている。イラク問題は米国の
攻撃に端を発し、風雲急を告げている。

 過日ブレア首相は、カトリック教徒である夫人の意見を容れて、ロ
ーマ教皇と会談を行なった。米国のイラクへの攻撃が、キリスト教世
界対イスラム世界の宗教戦争の引き金になることを、ローマ教皇は
危惧され、ブレア首相に戦争回避を強く要請したと報道された。

 しかし、ブレア首相はブッシュ大統領の開戦を止められなかった。
米国に同調参戦した。聡明なブレア首相である。相当な深い読みが
あって米国協調を選択したのであろう。

 政治と宗教が極めて密接な関係にあることは、本HPのテーマでも
あり、出来るだけ客観的に紹介してきた。

 究極的には、個人の魂の救済を本義とすべき宗教が、政治や軍事
や利権と結託してまで教団勢力や布教をのばすことが、真に「ゴッド」
や「ブッダ」の望むところであろうか、という素朴な疑問が湧く。

 ブッシュ大統領も、フセイン大統領も、「神のご加護を」と唱えるが、
『神』という存在が、国家や部族の利権の後ろ盾であっては、はなは
だ『神』は矮小である。

 それでは共産主義のような無神論、唯物論がよいかというと、これ
また魂の救済には程遠い。あの旧ソ連でも密かに民衆はロシア正教
を信仰し、イスラム教を祈り、中国でも仏教やラマ教信仰は残った。
マルクスレーニン主義者の説く労働価値説は、魂の救済にはならず、
現世では多くの国で無価値になっている。

「真の神」は、人類や生物、さらには地球存在そのものを包むような、
無限に大きい愛を持つ反面、自然の摂理という生々流転を生む冷た
い存在でもあろう。人類の創造した抽象世界かもしれない。

中世イングランドに忽然と親鸞の思想

 もともと英国国教会(The Charch of England)は、ヘンリー8世に
よりローマ・カトリック教会から独立した組織であり、政治と宗教が
極めて密接な関係にある。

 その英国国教会であれローマ・カトリック教会であれ、「善人は天国
へ、悪人は地獄へ」という聖書の教義は変わりない。

 ところが、17世紀のイングランドに、13世紀の親鸞上人の如く、
『善人なおもて往生す。いわんや悪人おや』と唱えた異色の僧がいた。

 親鸞上人と異なるのは、彼が「聖書」と「武器」と「鞍」を『イング
ランドの玩具』として焚き火に投じたことである。
当然のこととして時の政府に異端者として投獄された。僧の名はトー
マス・タニー(Thomas Tany)という。
 
 昨年7月、憶良氏にトーマス・タニーの人物像を知らせてきたのは、
米国ボストン大学大学院で宗教学を専攻するJarettさんであった。
Jarettさんはトーマス・タニー(Thomas Tany)についての出版を予定
しており、その裏表紙に使う絵を描いてほしいとの依頼であった。

 イングランド正史には登場しないが、トーマス・タニーの生涯と思想
は、まことに興味深い。その個性は強烈である。中世のイングランド
宗教界に、これほどの革新的な思想家が現われ、行動したことに驚
いたので、Jarettさんの了解を得て皆さんに紹介したい。
(詳細はJarettさんのホームページと出版予定の著書を参考に)


異色の僧トーマス・タニー

 トーマス・タニーがいつどこで生まれたか誰も知る人はいない。
1649年以前の彼の人生についても全く詳らかでない。

No one knows when he was born. Or much of anything of his life
before 1649.

 彼はロンドンのテンプルバー(注1)で金細工人として働いていた。

He worked as a Goldsmith in Temple Bar, London,

(注1)余談であるが、テンプルバーについて述べてみたい。
   「Temple Bar」というのは、シティ(旧ロンドン市)の西端にあった
   門の名称である。1879年に撤去されて、今はテンプルバー・メモ
   リアルしかないが、中世ではシティへの入り口として賑わってい
   た。
   地下鉄の駅名にもなっている「Temple」の由来は、この地に12世
   紀から13世紀にかけて「The Temle Church」が建立されたことに
   始まる。
   この教会は1118年ごろ聖墓および巡礼者の保護の為にエルサ
   レム(Jerusalem)に組織された聖殿騎士団(Knights Templars)の、
   ロンドン宿泊所(London House)内に建てられたものである。
   エルサレムへ旅する巡礼者や、ロンドンへ来る信者たちの拠点
   でもあった。
   古くから教会は学問の場所でもあった。とりわけ聖殿騎士たちは
   巡礼者の保護という役目の傍ら、よく法律を学んだようである。
   現在「Inner Temple、Middle Temple 」と呼ばれている二つの著名
   な権威ある法学院がある。これらが「Inns」と呼ばれているのは
   寄宿舎制であるからで、英国の英才教育が寄宿舎制である歴
   史を物語っている。
   「Templar」が聖殿騎士のほか、この2法学院の法学生や、この
   2法院内に事務所を持つ法律家を意味することも面白い。
   (テンプラーは決してテンプラ学生ではないのだ)

 閑話休題

 1649年のある日、テンプルバーの店で仕事に励んでいたところ、突
然何者かに打たれ、口が利けず、目が見えなくなり、感覚を失ってし
まった。彼は神の為されたことだと直感し信じた。

and one day, in 1649, when he was working in his shop, he was
struck dumb, blind, and insensible by what he believed to be God.

 この衝撃の間に、神は彼をユダヤ人の最高の僧に任命し、イングラ
ンドに来るユダヤ人たちに真実を語り、教化するように命じた。

During this process, God appointed him the High Priest of the Jews
and ordered him to speak the truth and reclaim the Jews to England.

 彼は、1651年に神冒涜法違反(不敬罪)で逮捕されるまでの1―2年
を、著述に専念した。彼の著作は神の冒涜であると解釈され、ニュー
ゲイト監獄(注2)に約1年投獄された。

(注2) Newgate prisonは旧ロンドン西門にあったが、1902年取り壊さ
    れ、今はない。

He spent the next year or two just publishing a few of his books--
until he was arrested in 1651 under the Blasphemy Act. His publications
were considered Blasphemous and he was sent to Newgate prison for
about a year.

 1653年に牢獄から釈放されると、彼はケント州のエルサムに移り、
イスラエルに帰るイスラエルの12の部族のために12のテントを建てた。
 1654年、彼はロンドン近郊に戻り、主としてテムズ川南岸のランベス
にテントを張って生活した。

  When he was released from jail in 1653, he moved to Eltham in Kent,
where he put up 12 Tents for the 12 Tribes of Israel to return to.
In 1654, he had moved back to the general London vicinity-- specifically
Lambeth, where he was living in a tent.

 1654年12月、彼は公衆の目の前で、聖書と剣とピストルと馬の鞍を、
「これらは『イングランドのでっかい偶像』だ!」
と言って、火中に投じた。

In december 1654, he publically burnt the bible, a sword, pistols,
and a saddle-- calling them "THE GREAT IDOLS OF ENGLAND".



(つづく)
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