ソーホーで、ちょっと息抜き

(前頁より)



憶良氏のジョッキが空になる。舌はいよいよ滑らかになる。

「これに対して、古くから女性の裸体が神秘化されタブー視されてきた
日本では、女性の裸体は芸術の対象ではなく、猥褻行為と結び付き、
密やかな浮世絵の春画の世界に描かれて来たんじゃないかなあ」

「そう言われてみると、昔の日本にはミロのヴィーナスのような彫刻や、
ラファエロの三美神のようなおおらかな裸体画はありませんね」
「日本の彫刻や絵画でヌードが公然と美の対象なったのは明治維新後
だろうから、せいぜい百年そこそこの歴史と経験でしかない。おまけに
軍国主義華やかなりし頃は、ヌードは影をひそめていたからね。敗戦
によって、それまで抑圧されていた裸の文学的表現や芸術的表現は、
一斉に自由を謳歌しているが、われわれ日本人にはヌードに対して芸
術的感性で受け止める経験はまだ浅く、一方猥褻的表現の場合にも
社会全体としてどう対応してよいか、その経験も不慣れでオタオタして
るんじゃなかろうか」

憶良氏独特の歴史的分析が開陳された。
「日本ではズバリそのものの部分はぼかされているが、性行為とか猥
褻行為については、随分大胆に表現が自由化されているんじゃない
の。時間やメディアに関係なく比較的自由に報道されていると思うけど
ね」
  「そうですわね」

憶良氏に指摘されなくても、たとえば子供の読む少年少女漫画雑誌の
露骨
な描写に、いささか顔を赤らめたPTA婦人も多かろう。

もちろん憶良氏とて朴念仁ではないから、芸術的作品が税関の無慈
悲残酷な修正や没収の憂き目に会わない世になることを希望するけ
れども、
「自由化は簡単だよ。だけどさっき話したように、ヌードと猥褻表現に
対する社会全体の受け止め方の歴史と経験の厚みが違うからね。ヌ
ード即芸術とはいえないし、ヌード即猥褻でもなかろう。芸術か猥褻か
判断が難しい場合もあるかもしれないが、明らかにズバリ猥褻の性表
現を認める場合には、表現する場所とか放映時間帯とかメディアとか、
広告や販売方法などについて、若干の規制や自主的な慎みは必要じゃ
ないかと思うよ。こうした社会的常識とか相互規制とか節度とかいった
世界になると、戦後の進歩的日本人は環境や社会全体との調和を忘
れ、自己権利主張国民になるきらいがあるねえ。表現の自由の権利
を主張するときには、他方で必ずなんらかの制限や義務を負うことも
自覚しなければ片手落ちだよ」

「節度をわきまえれば、少しぐらい自由化してもいいと言うことかしら」
「まあそういうことかな」
「夜も更けましたし、そろそろ帰りましょうか」

お色気の嫌いな読者諸氏は少なかろう。リエさんであろうと、マドンナ
さんであろうと、黒々かもやもやか知らぬが、自然のままの姿を撮った
程度のヌードは、目くじらを立てずに猥褻の範疇から外してよいのでは
なかろうか。

もっともっと秀れた大人の『ヌードと猥褻』論を展開できる方々や、豊富
妖艶な実体験を、黙って胸の中に秘めて、ニヤリと思い出しの含み笑
いをしていらっしゃる読者諸氏に軽蔑されるかもしれない。

いやはや自由化の流れは速い。筆を執っている間にも、多くの女優さ
んやOL女子大生がサッサと脱いで、黒々と見せて出版社の売上を伸
ばしている。
憶良氏の浅薄な猥談はここらで止めよう。失礼しました。




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