大英帝国の旧植民地シエラレオネの内紛(1)

建国を阻害する部族の抗争




はじめに・・・・・内紛を多角的に客観視しよう

現在アフリカ大陸でいくつか紛争が起きている。
日本では、総選挙や少年犯罪や南北朝鮮問題などの緊急の問題
が多いので、マスコミ報道は少ないが、シエラレオネとジンバブエの
内乱は、多くの問題を内包している。

まず最初に、シエラレオネとジンバブエは別々の国家であり、内紛
の内容も異なるが、いずれも元大英帝国の植民地である点に注目
し、過去の政策を見よう。

19世紀から20世紀半にかけての大英帝国をはじめとする先進各
国の繁栄は、他方で植民地国家にいくつかの功罪両面を残した。
20世紀は、文明の著しい発展の世紀であったが、同時に世界規模
の戦争(領土と資源の獲得競争)に明け暮れする時代でもあった。

次に独立後の国家体制を見よう。途上国は折角独立を勝ち得ても
人種・民族や宗教の争いによる内紛が生じている事例が多い。

その内紛に見られる他部族殺戮の残忍さには、「人間とはなにか」
「宗教とはなにか」という根元的な問題を提起しているようである。

今回はシエラレオネ紛争を「他山の石」として検討し、過去の大英
帝国の植民地政策の功罪や、独立した国家内部に残る民族・宗
教の及ぼす深い傷跡をみよう。
21世紀は、人類が犯した過去千年の過ちを軌道修正する出発の
世紀とせねばなるまい。

1 解放奴隷クレオールとシエラレオネ(Sierra Leone)
2 英国からの独立と部族間の抗争
3 最近のTIMELINE(次回)
4 対峙する勢力図(次回)
5 理念なき内戦の問題点(次回)

1 解放奴隷クレオールとシエラレオネ(Sierra Leone)

アフリカ西岸にあるこの国は、その首都「フリータウン」
(Freetown)の名前が国家の成立と性格を端的に示している。
15世紀頃といわれているが、ポルトガルの商人たちがアフリカの
象牙や奴隷を求めてこの地に来ていた。
16世紀後半には英国の奴隷商人も来ていた。
しかし英国の奴隷廃止論者たちは、18世紀末に奴隷解放に立ち
あがった。1787年、解放奴隷をこの地に入植させたのである。
奴隷廃止論者たちは沿岸貿易会社として設立した「シエラレオネ
会社」により、奴隷廃止の推進をした。

1792年、シエラレオネ会社はカナダの東部ノヴァ・スコシアから
解放奴隷を多数入植させた際に、この地を「自由の町」フリータウ
ンと命名した。
その後1808年に英国政府は「シエラレオネ会社」を接収し、以来
この町を、英国の西アフリカ植民地政策推進の拠点とした。

英国政府は1827年に、アフリカ人の高等教育機関としてフーラー・
ベイ・カレッジを創設した。のちのシエラレオネ大学である。
大西洋で解放されたアフリカ人奴隷たちは、クレオールと呼ばれた。
彼らはキリスト教に改宗し、このカレッジで学び、官吏や企業家、伝
道師や教師となり、アフリカ各地のリーダーとなっていった。
19世紀のフリータウンはシエラレオネの主都としてだけではなく、
西アフリカでの指導的な役割を果たす都市であった。

(英国の奴隷廃止論者たちのとった奴隷解放の人道的な行為は、
評価されよう。また英国政府がクレオールや原住民の教育機関を
作った過程や成果は、後年日本政府が台湾に台北帝大などを設
立した状況に似ていると思う)

第一次大戦後、クレオールを主導者として民族独立運動が起こり、
第二次大戦後,住民に選挙権が与えられ、1961年ようやく独立た。
しかしその後の40年間は、国内の民族間の抗争の歴史という悲劇
を生む。
解放奴隷の子孫である混血のクレオール(キリスト教)は、少数の
エリート階層を形成したが、人数では土着のテムネ族(北部)と、メ
ンデ族(南部の熱帯雨林地方)が国内を二分し対立した。
テムネ族はイスラム教であり、メンデ族は部族結社を主とする土着
宗教である。



2 英国からの独立と部族間の抗争

権力の座を巡って、宗教・部族・軍などの要因が絡み、転々と激変
した主な政争の流れを憶良氏流にまとめてみよう。

(1)民族自決運動
   第一次大戦後、クレオールを主導者として民族独立運動が起
   こり、シエラレオネ植民地国民会議(NCCSL)が結成された。
(2)メンデ族の勝利
   1951年の総選挙ではメンデ族のシエラレオネ人民党(SLPP)
   がクレオールのNCCSLを破り勝利。57年の選挙でも大勝、M.
   マルガイが首相に就任し、英国と独立交渉に入る。
(3)英国からの独立
   1961年4月27日遂に独立、イギリス連邦に加わる。

(4)野党APCの勝利と軍と警察のクーデター
  1967年3月の総選挙ではテムネ族とクレオールのくんだ野党
  APCが僅差で勝利。ところが軍と警察が介入。与野党指導者
  は海外へ亡命。
(5)民政復帰と分裂
  1968年4月、軍内部のクーデタによって民政復帰が決定し、
  APC‐SLPP 連合政権成立したが分裂。
(6)共和制移行
  1971年4月、共和制移行。APCのスティーブンズが大統領に
  就任。

(7)APCの一党独裁政治へ
  1977年5月の選挙でAPCが大勝、1978年6月一党制国家と
  なる。
(8)暴動多発
  1982年5月、最初の一党制選挙では政府による不正が多く、
  暴動も発生。85年、85年には政府職員のストライキ,学生ら
  の暴動も。
(9)軍指揮者モモが大統領に
  APCは1985年に軍指揮者モモを大統領後継者とし、86年1月
  就任。
(10)民主化運動起こる
  1990年ごろから民主化運動が起こり、1992年軍クーデタ。
  モモ大統領は亡命。
  ストラッサー大尉が暫定政府議長に。この頃東部で指導者サ
  ンコー率いる反政府勢力の革命統一戦線(RUF)が台頭。

(11)軍内部の抗争とSLPP(メンデ族)の勝利
  1996年1月、大統領候補者をめぐり軍内部の抗争があり、2月
  の総選挙でSLPPが勝利。カバ大統領はRUFサンコと和平合意。
(12)RUFサンコの国政参加
  1997年5月軍のクーデターでカバ大統領は失脚したが、10月
  ナイジェリアが介入。アフリカ機構はカバ大統領復権を承認。
  RUFサンコ国政参加。
(13)革命統一戦線(RUF)の反政府闘争
 サンコ主導の革命統一戦線は政府と折り合わず、再び内戦状況
 となる。

次回大英帝国の旧植民地シエラレオネの内紛(2)へ続く

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