晴耕庵の談話室

NO.97



標題:悲劇のウェールズ王妃エリナーの生涯


QUESTION

2004/1/12


ロンドン憶良様


初めまして。スールと申します。ウェールズ史を趣味で調べており
まして、このホームページにお邪魔させていただきました。

分かりやすく、単に「イギリス」としてくくって書かれていないところ
にすごいなぁと思いました。情報も多岐に渡っていらしてすばらし
いです。

私は中学のときに「イギリスは4つの国が集まってできている」と
いうことを知って衝撃を受けました。そんなところから何思ったか
「あんまり聞いたことの無いウェールズとはどんなところなのだろ
うか」と思い資料を集めていくうちに、小説でも書こうかと思い立
ったのです。(中学2年の頃です)しかし、あまり資料が集まらず
(私の資料の集め方が悪かったのかもしれませんが)、大学に入っ
てからやっと、少々専門的な本を読み漁ることができるようになり
ました。もっとも史学系統を専門に学んでいるわけではないので、
専門的な本といっても「西洋人名辞典」や「王朝系図」や「英国王
室事典」などしか調べられそうな本が見つからなかったのが現実
です。

そんなときにこのホームページを見つけて立ち寄ったものですか
ら、感謝ひとしおでした。ありがとうございます。

つらつらと自分のことばかり書いてしまいましたが、質問がありま
してメールいたしました。初めてメールを送るのにぶしつけで申し
訳ありません。

ウェールズのルーウェリン王(エドワード1世と戦ったほうです)と
シモン=ド=モンフォールの娘のエリナー姫が結婚したのは知っ
ているのですが、ルーウェリン王が戦死した後、彼女はどうなった
のでしょうか?

シモンはイーヴシャムでエドワード1世に敗れて戦死しています。
彼女には兄のアモーリーがいたと本で読んだのですが、やはり
彼に引き取られたのでしょうか?
それとも娘のグェンリアンと共に修道院へ入ったのでしょうか?
その修道院も、ウェールズにあるのかイングランドにあるのか分
からないのですが、その辺は資料には載っていないのでしょうか?

私が見たものでは「娘のグウェンリアンは修道院に入った」としか
書いていませんでした。ついでに言えば、娘も年齢が分からない
のですが、両親の結婚の年号からして相当小さかったのではない
でしょうか?

その他、「英国王室事典」についていた系図や「王朝系図事典」
を見たところ、ルーウェリンの叔母(?)にあたる人物が(グワル
ディスというそうです)マーチ伯に嫁いでいて、その血統がばら戦争
で有名な「エドマンド=ドゥ=モーティマー」に繋がっているとなっ
ていました。
しかし、王家の系図はよく出ているのですが、伯爵家の系図など
はあまり資料がなく、それが本当なのかどうかも調べようがありま
せんでした。できれば、モーティマー側から見てみたいと思うので
すが、何か方法は無いでしょうか?

質問が多くてすみません。どうしても気になったことだったので。
お返事いただけたらと思います。
では。またホームページに遊びに来ます。


スール




ANSWER

2004/1/18


スールさん


メール拝見しました。
ウェールズに興味を持たれて、ウェールズの方々は大変喜んで
いるでしょう。
回答かたがたイングランドとウェールズの抗争を概観しましょう。


1 ヘンリー3世および長男エドワード(後のエドワード一世)と
  シモン・ドゥ・モンフォール伯(Simon de Montfort)との抗争

イングランド王朝の歴史は、森護著『英国王室史話』に詳しいの
で、すでにご存知と思いますが、概略まとめてみます。

フランスのプランタジニット王家の血統のヘンリー3世は、1236
年、王妃としてフランスのプロヴァンス伯の娘エリナー・オブ・プロ
ヴァンスを迎え、1239年王子が生まれた。

ヘンリー3世の妹エリナーは、英国の大貴族レスター伯シモン・ドゥ・
モンフォールと再婚していた。王の義弟モンフォールが名付け親
(Godfather)となって、敬虔なエドワード懺悔王に因んで、皇太子は
「エドワード」と命名された。

ヘンリー3世と王妃はイングランド貴族を軽視し、フランス系貴族
を重用したため、国民の信望が薄かった。その上、フランス王との
戦いに再三敗れ、イングランドの貴族は分裂していた。
王権と貴族の権限をめぐり、義弟シモン・ドゥ・モンフォール伯は
対立した。国内は内乱状態となった。

このころイングランドに臣従をしていたウェールズは離反独立した。
当時のウェールズの首長(プリンス)は、ウェールズを統一した大王
ルーウェリン・ザ・グレイトの孫であるルーウェリン・アプ・グリフズ
であった。

ルーウェリン王(プリンス)は、ヘンリー3世・エドワード王子と
シモン・ドゥ・モンフォール伯の抗争に際して、モンフォール伯を
支援した。

1264年、リューイスの戦いではモンフォール伯が勝った。
モンフォール伯は義兄ヘンリー3世とエドワード王子を幽閉した。

モンフォール伯は、王権による政治あるいは貴族による政治より
も、より市民的な議会政治を志向していた。
伯は、各州から二人のナイト、各市から二人の市民、自治都市か
ら二人の代議員を選出させた議会(Parliament)を発足させた。
下院議会の創始という画期的なことを行ったのである。
しかし、この改革も一年で終わった。

1265年、エドワード王子は脱獄に成功し、ウースターの東、イー
ヴシャムの戦いで、逆に勝利し、シモン・ドゥ・モンフォール伯や
息子たちは殺害された。

シモン・ドゥ・モンフォール伯の改革は、時期尚早であり、王権に
反対していた貴族たちも、この改革に反感を持ったのであろう。
エドワード一世の絶対権力がこれを機に強大となっていった。


2 モンフォール伯の娘エリナーを娶ったプリンス・ルーウェリン

プリンス・ルーウェリンは、シモン・ドゥ・モンフォール伯と連携した
絆を大事にして、エドワード一世との対決姿勢を崩さなかった。
1274年、エドワードがイングランド王に戴冠したが、ルーウェ
リンは戴冠式を欠席した。その後1276年4月まで5回も招聘が
あったが、イングランドに臣従しなかった。

ルーウェリンは没落したモンフォール伯一族を庇護し、1275年、
その娘エリナーと結婚することを決め、プロポーズした。エリナー
姫は、当時フランスにいた。伯父たちがイングランド王、フランス王、
神聖ローマ皇帝という血統ではあるが、父モンフォール伯が王権に
反抗していたので、フランスではつらい立場にあった。

エリナー姫はルーウェリンの申し出を受け、兄アモーリー(Emerie
あるいはAlmeric)と、フランスから船でウェールズに向かった。
しかし、この船は英国船に捕らえられ、二人はエドワード王に差し
出された。エドワード王は、二人を投獄した。

ルーウェリンは再三釈放を求め、エドワード王の過酷な条件提示
に反抗したが、1277年12月ついにエドワード王への臣従を決断
した。

翌1278年11月、ルーウェリンは、エドワード王臨席の下、ウェー
ルズ国境に近いイングランドのウースター聖堂で結婚式をあげた。


3 エリナー妃の死と娘グウェンリアン姫の生涯

1282年6月19日、エリナー妃はルーウェリンとの間のただ一人
の子供グウェンリアン(Gwenllian)を出産すると亡くなった。

ルーウェリン王の弟ダフィド(Dafydd)は、これまで兄に反抗し、エ
ドワード王に臣従してきたが、1282年3月、イングランドに反旗
を翻していた。
それまでルーウェリン王は事態を静観して来たが、エリナー妃の
死が、ルーウェリンに決断を与えた。

ルーウェリン王も立ちエドワード王と戦ったが、1282年12月11日
戦死した。王の首はエドワード王戦勝の証としてロンドンに送られ
た。

生まれたばかりのグウェンリアン姫は尼僧院に入り、1337年セ
ンプリンガム(Sempringham)の尼僧院で亡くなった。享年55歳で
あろう。
(センプリンガムはシックスヒルズ尼僧院の近くというが、手持ち
の詳細な地図でも特定できない)

ルーウェリン王の弟ダフィド(Dafydd)が、プリンス・オブ・ウェー
ルズを名乗ったが、翌1283年6月捕虜になり、11月獄死した。
ダフィドの二人の子供は終身投獄され、娘はリンカーン州シックス
ヒルズ(Sixhills)の尼僧院で、1336年に没した。


4 参考資料

下記の4図書でまとめました。

森護 英国王室史話  大修館書店
A History of Wales John Davie Penguin Books

The Dictionary of English History SidneyJ.Low Cassell & Co.Ltd.
(1889)*
Cassell's History of England Vol 1 Cassell Petter Calpin (1873)*

*は100年以上前の発刊の古書ですから、日本では入手は難しい
と思います。

                     ロンドン憶良





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