晴耕庵の談話室

NO.92



標題:エドマンド剛勇王の子孫たちとノルマンコンクェスト(3)

OPINION & APOLOGIZE

2003/12/2

ロンドン憶良様


大変興味深いメールをありがとうございます。

1 北欧三国のほかロシアもヴァイキング国家

『北欧三国はまさにヴァイキングが国家でした。』(憶良)
これはもちろんのこと、実はロシアもそうですよね。キエフ=ロシア
を建設したリューリク一門はヴァィキングなのですから・・・。

またノヴゴロドには常にヴァイキング傭兵がたむろし、南方のキエフ
とは差異のある文化を形成していたとされています。ヤロスラフは、
このノヴゴロドで兵を挙げ、遊牧民ペチェネギ族を味方につけた兄
と戦って勝利するわけです。

遠くビザンティン・ローマ帝国の傭兵親衛隊としても勇猛な(時に陰
謀の渦中にありましたが)人々でした。ときどき「英国人」と書かれ
ていることもあるのですが。(「ノルマン=ヴァイキング」のことを指
しているのだと思われます)

2 剛勇王の幼い子供たちの亡命

ヴァイキングの対立関係については、まだ資料不足でなんともいえ
ません。
が、ノヴゴロド市にあつまったヴァリヤーグ勢が雑多であること(た
だしスウェーデンと書かれていることもあり)や、傭兵としてあつまっ
たのであれば、有力者の抗争がそれほど影響していたのかどうか・・。

カヌートによる追放については、やはり私もそう思います。
というか、そのほうがなんとなくすっきりするので。
親父が殺されたので、あわてて一族が追放した・・・
というのはなんとも納得がいかず。

ただ、スェーデンからハンガリーへの移動については、諸説あって
定まりません。当時の状況からいうとロシアの内乱を契機に移動し
た・・・とみてもおかしくないような気がしますが。
(ヤロスラフとスヴャトポルクの公位をめぐる争いは、最初はノヴゴ
ロドのヴァイキングとキエフの遊牧民の力を背景にしており、その後
破れたスヴャトポルクがポーランド王国に亡命し、その力を借りて
再度ノヴゴロドに侵攻する。このとき敗北したヤロスラフは絶望し、
父親ウラジミールの時のようにスカンジナビア半島への逃亡を考え
るが、家臣に諌められて翻意する。・・・すでにヤロスラフの父親は
北欧と深いつながりがあり、その関係でクヌートとつながりがあった
可能性がある)

3 エドワード王子の帰国と急逝の謎

『 エドワードは懺悔王の後継者となるべく帰国したが、多分英王
位を狙うゴッドウィン一族に殺害されたと推定して、拙著を展開』
(憶良)
このあたり、非常に興味深いです。
彼がロンドンについた途端に死んでしまうというのはおかしいと
思ってました。
しかし、となるとエドワード一家のロンドン到着は、事前に広く
知られていたのですね。


4 エドワード王子の結婚相手

もうしわけありません。これは私の全面的な早とちりでした。失礼
しました。また、間違いでもあります。

聖王と呼ばれるハンガリー初代国王イシュトヴァーンには、娘とし
て「アガサ」がいます。つまり「姪」ではないのです。
(参照:http://village.infoweb.ne.jp/~isamun/monarchs/people/arpad.html)
←このページでは、エドガーの父親ですね。

またこれについてハンガリーの方にきいたところ、どうもイシュト
ヴァーンの血筋のものと正式に結婚したという証拠はないらしく、
「英国ではそう言われているが」という前置きがつくそうです。
またエドモンドについてもよくわかりません。(彼も結婚したらし
いのですが)

したがって、前回のメールでのドイツ系の話は、そういうたくさんの
説の一つということになります。
イシュトバーンの妻ギゼラがバイエルン公の娘ですし・・・。

またアガサにしても、もう一人の娘についても生年没年がハッキリ
しませんが、これはマジャール人の文化がそういうものだからかも
しれません。(女性の場合、ほとんどの場合名前が残らない)

こう考えると「聖王」として教会に認知されたイシュトヴァーンの話
が英国に逆輸入され、その一環で生まれた「伝説」のような気さえ
してきます。(実際には、彼の統治は過酷で、戦争と謀略にみちた
ものでしたが・・・とくにマジャール人への宣教については血なまぐ
さい話があります)

5 ヴェネツィア人の関与

これについても私のサイトで質問したところ、面白い話がわかりま
した。
まず「船頭」というドラモンドという家ですが、この家はアンドラーシ
ュ1世の息子の末裔だというのです。
アンドラーシュ1世というのは、前回かいた聖王亡き後の王位継承
戦争で勝利した人物です。息子の一人がシャラモンですね。

ただし、これは「そう主張している」というだけで、どのような(例え
真実でないにしても)背景があるのかはっきりしません。
また1200年前の同家の家系ははっきりしない・・・という話もあり
ます。

6 ハンガリーでの聖マーガレット伝説

なお、聖女マーガレットですが、ハンガリーのメチェクナーダシュド
というところにある伝承では、エドワードをエドモンドの両皇子が
ここに逃亡してきたという話があるのですが、ここに彼女の「聖遺
物」があると言われているようです。(観光ガイドに出ているそう
です)

両皇子はともかく、何故に聖マーガレットの聖遺物があるのか、
そのあたり非常に興味があります。(もちろん後世、聖人の遺物
を集めたのかもしれませんが)

こうして考えてみると、カトリックの正統王国として中世初期に
ローマ教会とビザンティン帝国の間にあったハンガリーの聖王
イシュトヴァーンが、意外と同時代において知名度のある人物で
あったことに驚かされます。
これは後世「東欧」という政治用語の枠に押し込められることで、
その実に興味深い歴史の極一部しか知らないことも原因なのかも
しれませんが、西洋史に偏った世界史教育も関係するのかもしれ
ません。

                    大鴉

INFORMATION

2003/12/7

ロンドン憶良様

なお、こちらの掲示板ではハンガリーにおけるエドワード
&エドモンド両皇子、および聖マーガレットのハンガリー
における痕跡について、いろいろ話題が出ております。
マーガレットの生まれ故郷の城って、まだあるんですね。
驚きました。

                    大鴉


REGARDS

2003/12/7

大鴉さん

ハンガリー史でのいろいろな情報をありがとうございました。
幼少で他国に亡命した王子たちが、長じて傭兵隊長あるいは
客将ともいえる高い地位を得ていたことが推測されます。
剛勇王の資質が継承されたのかとも思います。それは後にス
コットランド王妃となった聖マーガレットの気丈さと宗教心と
聡明さ(スコットランド文明開化の母)に繋がっている気がし
ます。
現代風にいえばDNAのなせる業かもしれません。


                  ロンドン憶良




晴耕庵の談話室(目次)へ戻る

ホームページへ戻る