晴耕庵の談話室

NO.67



標題:ブルージュ(Brugge)を訪ねて
 「ブルージュの繁栄と没落、そして現在」


REPORT

2001/9/6

ロンドン憶良様


MFです。ご無沙汰しております。

今年の11月から英国に赴任することになりました。1993年12月に
米国駐在から戻り、8年ぶり2度目の海外赴任です。
英国の懐の深さを生活の中で、体験できることを楽しみにしております。
赴任日が決まりましたら、またメールでご連絡します。

5月にヨーロッパに出張する機会があり、ベルギーのブルージュを
訪れました。以下はその時の感想です。ここにもノルマンの影響が
ありました。ご一読いただければ、ありがたいです。

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ブルージュ(Brugge)を訪ねて 
「ブルージュの繁栄と没落、そして現在」


ヨーロッパに出張した際、休日(5月27日)を利用して、ブルージュを
訪ねた。
ブルージュは水の都、美しい中世の町である。しかしその歴史を聞い
てみると繁栄から没落、1000年以上の時の流れのなかで、外的要因
に翻弄された町であり、その中世の町の美しさに感動する一方、変化
の大きい現在、日本の繁栄は何によってもたらされているかを考えさせ
れた。ブルージュの繁栄と没落の背景にあった要因を要約すると以下
のようになる。

「ブルージュが繁栄したのは、封建国家フランドル伯領、フランドル伯
の居城があったこと、北海につながる河川を利用した貿易、商人・職人
を中心とした自治都市であったことである。しかし、その繁栄も、ブルゴ
ーニュ公家の支配、河川に土砂の堆積により北海との遮断、産業革命
によるフランドル手工業の崩壊という外部環境の変化によってブルー
ジュは衰退した。」

以下は、ブルージュの歴史である。

9世紀頃のノルマン人の北方からの度重なる攻撃と侵略により、西ロ
ーマ帝国旧領の大半を統一していたフランク王国が崩壊、その脅威
から自衛とキリスト教を守るために、各地で司教や地主たちを指導者
とする多くの封建国家が生まれた。フランドル伯領はそのひとつである。

フランドル伯領にあるブルージュの名が史書に登場するのは9世紀の
ことである。バイキングがこの地に波止場、もしくは「橋bryggia」を築い
た。
ノルマン人の略奪行為に備えてフランドル伯はフランダース地方の城
塞都市づくりを始めた。砦を築くことが町の起こりとなったブルージュを
始めとする中世都市の誕生である。急激な商業の発展をみたフランドル
伯領は、ヨーロッパで最も人口が多く、発展した地域となった。フランドル
伯の居城がブルージュに置かれ、商人や手工業者が集まって暮らした。

10世紀には、十字軍に参戦したのをきっかけに遠隔貿易と毛織物工業
が発展し始める。
10世紀以降、河川に沿って発展してきた交易は物資の中継、補給地と
して町は次第に発展し、都市となり、市が定期的に立つようになり、道路
が輸送路として使われるようになる。新しい階級として生まれてきた商人
や職人達は力を付けるに従い、自治を求めるようになった。自治都市の
誕生である。ノルマン人の侵略が止むにつれて、ヨーロッパ国内は次第
に安定し、各国の経済は飛躍的に成長したが、特にフランダース地方は
黄金時代の幕開けとなる。イギリスからの羊毛で、高級織物が生産され、
ヨーロッパ各地に販路を見出したフランダース地方の諸都市は繁栄し、
人口が増加し、強大になった。フランドルの中心都市であったブルージュ
にはイタリアやスペインから商人が集まった。

11世紀になると、英国からの羊毛の輸入港として、またさまざまな物産の
中継地点として、ブルージュは一躍、北ヨーロッパ随一の国際貿易港と
なった。1127年には自治権を獲得し、フランドル伯領の首都として発展
を続けた。ブルージュは、フランドル〜北ヨーロッパを代表する国際貿易
都市として繁栄した。

13世紀以降は、外国の商人が商品をうりさばくために、ブリュージュを訪
れることが慣わしとなった。同時に彼らは、当時世に名高いフランドルの
布地を購入した。この結果、地方の職人は繁栄し、ギルドを形成した。
13世紀になると輸送は陸路から海上輸送へと代わり、ハンザ同盟都市
として、ブルージュは北ヨーロッパの国際商業の中心地として15世紀後
半まで確固たる地位を誇った。多数の自立した商人が、織物産業の繁栄
に尽力した。
ブルージュは商業の主要な中心地となった。

しかし、15世紀後半、北海とブルージュを結ぶ入り江に土砂が堆積し、
大型船の遡行が出来なくなり、商業都市としての機能を失ったことにより、
衰退をたどり、代わってアントワープが台頭することになる。土砂の堆積
だけが衰退の理由ではなく、当時の国際政治経済情勢の大きな流れの
中で、北ヨーロッパの経済の中心がブルージュからアントワープへと動い
た。14世紀にはフランスのブルゴーニュ公家がフランドル伯家と婚姻関係
を結んだ。代々のブルゴーニュ公はその絢爛を極めた宮廷をブルージュ
に定めたが、最終的には繁栄を取り戻すことができなかった。

産業革命の結果、個人労働、手工業は息の根を止められた。1845年に
ブルージュの人口の約半数は、生活の糧を請い求めなければならなか
った。例えば、1万人以上の婦人がボビンレースを売って生計を立てなけ
ればならなかった。このことは、当時の惨状を物語るものである。

19世紀には、英国の観光客がブルージュの美とその純然たる中世的な
雰囲気に魅了された。ブルージュは国際的に認められた観光地になった。

                           (以上)


THANKS

2001/9/7

MF様


このたびは英国へのご栄転おめでとうございます。
世界の政治経済が激動している中、特にIT関係は大きく揺れて
おり、お仕事も大変でしょう。
どうか健康にご留意され、ご活躍ください。

人類は賢くなっているのかどうか、ふと疑問に思うことがあります。
約30年前訪れたポンペイの遺跡を、昨日はポンペイ展で再び垣間
見ました。

ブルージュもベルギー出張の際、現地勤務の後輩の案内で1日
訪問して、その落ち着いた都市の色彩感覚に感動しました。
ヨーロッパには古いよい雰囲気の町が多く残り、(残したというべきか)
休暇が楽しいですね。

今後も最新の英国や欧州現地事情を談話室にお寄せ下さい。

                              ロンドン憶良


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