晴耕庵の談話室

NO.63



標題:ウィリアム征服王葬儀の際の異臭について

QUESTION

2001/3/29

ロンドン憶良様

はじめまして、H・Nという者です。
憶良さんのノルマン征服記楽しく拝読させて頂いております。
私も以前HastingsやBattle abbeyに行ったことがあるのでその時のこ
とを思い出します。
ところでWilliam the conquerorについて一つお尋ねしたい事があるん
ですが、ウィリアムの葬式の時に側近が彼の遺体を石棺に入れよう
とした時にその棺があまりに小さいため強引に押し込んでいたら、彼
の遺体の腹が破裂して教会中に恐ろしい臭気が充満したと以前に本
で読んだことがあるんですがこれは事実なんでしょうか?

ちょっと医学的にそんなことがありえるのかなーと思ったもので。
まあ別に大したことではないんですが、本当のところを知っているの
でしたら是非教えて下さい。

それでは、また。
   
                     H・N


ANSWER

2001/4/10

H・Nさん


メールありがとうございました。以前HastingsやBattle abbeyに行った
ことがあるとのこと。またご質問の内容からもウィリアムにかなりお詳
しいと察します。

さてウィリアムの遺体が、葬式の際に臭気を放って、参列者が逃げ出
し、司祭がやっと埋葬したことは、学者の書かれた史書にも、巷説で
も伝えられてきています。

ご参考までに、私は次の3つの図書から「臭気が出たのは事実ではな
いか」と思います。

「Cassell’s Illustrated History of England」
「William The Conqueror」David C. Douglas 
「ノルマンディー歴史紀行」 Lリッチ著 幸田礼雅訳


1 ウィリアム公の死因

ウィリアム公は、ご存知の通り嫡男ロバートと庇護者のフランス王の
軍勢を掣肘せんと、1087年Mantesの町を攻めた際に、町に放火しま
した。燃え盛る町の通りを進んでいる時彼の乗馬が大きな残り火に驚
き跳ねて、肥満の彼は鞍の前部で腹部を強打し落馬しました。
一説では突然内臓にひどい痛みを感じたともいわれています。

この激しい腹痛の為彼はルーアンに引き返し、同地で静養しましたが、
日に日に悪化し、9月9日、郊外の小さなSaint-Gervais僧院で亡くなり
ました。

彼に従っていた諸侯は、直ちに自分の領土に帰り、ルーアンの市民
たちは戸を閉め貴重品を秘匿し、宮廷の召使たちは財宝を略奪し逃
げ去りました。
そのため、ウィリアム公の遺体は、殆ど裸の状態で、約3時間地面に
放置されていたようです。

これを見かねたルーアンの大司教が、遺体をカーンに運ばせました。
ウィリアム公を憐れんで、自費で運んだのは近隣の騎士Herluinでし
た。

酷い痛みの内臓疾患で逝去し、晩夏の暑さの中で3時間も裸で放置
されていれば、相当腐敗が進んでいたことでしょう。
晩年は肥満体だったようですから、糖尿病体質と推測されます。

2 葬儀中の騒動

葬儀はその日のうちにウィリアム公が創建した聖ステファン教会でお
こなわれましたが、ミサの際、ちょっとした騒動が起こりました。

アスランという男が、「埋葬しようという土地は、父がウィリアム公に騙
し取られた地所だ。土地代をはらってくれなければ埋葬に反対」と異
義を唱えました。

ヘンリー王子や参列者が協議し、とりあえず60シリングを払い、後日
全額を支払うことで葬儀は再開されました。

3 遺体の臭気

最後に遺体を石棺に入れる際、もともと大柄な肥満体の上、腐敗が
進んでいたのでお腹が破れ、教会中にもの凄い悪臭が立ちこめ2・3
の司祭を除き、参列者はほうほうのていで逃げ出しました。
司祭らは大急ぎで葬儀を終え、やっとのことで埋葬しました。

これらは上記3冊を総合してまとめましたが、腐乱臭は史実でしょう。

ウィリアム公の晩年には、オドの幽囚を解いたり、いろいろなことがあ
りますので、詳細については、後日「われ国を建つ」の最終章をご覧
下さい。

以上遅くなりましたが、ご返事申し上げます。

                               ロンドン憶良



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