晴耕庵の談話室

NO.4


REPORT

標題:エドワード3世の対スコットランド政策(1)

T.O.さん、お役に立ちますか?

ご承知の通りエドワード3世は、暗愚な父エドワード2世と違って聡明かつ
果敢な性格で、勇敢な祖父賢王エドワード1世を尊敬していました。在位期
間も50年と長いので、対スコットランド政策にもさまざまな対応が見られ
ます。とりあえず私の勉強かたがたまとめた第一報を入れます。

エドワード3世は1327年15歳で王位についていますが、母イザベルと
母の愛人マーチ伯ロジャー・ドゥ・モーティマーはエドワード3世を無視し、
政治を壟断しました。

母イザベルとマーチ伯ロジャーは、スコットランドのロバート・ブルース王
とのトラブルを恐れ、エドワードの妹ジョアンを1328年7月ブルースの
長男ディヴィッドに嫁がせ、同盟を結びました。
この時イザベルは「運命の石を返還する」との口約束をしたといわれていま
すが、実行はしていません。

1329年6月ロバート・ブルースが他界、ディヴィッドは5歳で即位、デ
ィヴィッド2世王となりました。
ロバート・ブルースを支えていた重臣の多くも死亡しており、幼い王を支え
る有力な貴族はマリ伯トマス・ランダルフThomas Randolf,Earl of Moray,
(ロバート・ブルースの甥)一人だけでした。
このためスコットランドは政情が不安定で、幼い王は2年後の1331年11
月に、父同様「運命の石」に座らないまま戴冠式をあげています。
政情不安定の原因の一つは、かってイングランドのエドワード1世に内通し、
ロバート・ブルースに領地を没収されていた不満貴族が、フォース湾(Firth
of Forth)の北、ファイフ地帯(Fife)にたむろしていました。

1330年3月、母イザベルとマーチ伯ロジャーはエドワード3世に無断で
ケント伯エドマンドを処刑しました。この処刑に怒った18歳のエドワード
3世は、1330年11月イングランド中部のノッチンガム城に母イザベル
とロジャーを逮捕し、ロジャーを極刑に処罰し、母イザベルを軟禁しました。

父エドワード2世の時に後退していたスコットランドとの屈辱外交に反感を
持っていたエドワード3世は、ロジャーの処刑で政治の実権を握ると、直ち
にスコットランドの制圧に着手しています。
エドワード3世は祖父エドワード1世同様にスコットランドの不満貴族を篭
絡し、ディヴィッド2世に代えてエドワード・べイリャルEdward Balliol
(ロバート・ブルースにより廃位されたジョン・べイリャルの長男)を王位
につける計画でした。

1332年8月エドワード3世はスコットランドのファイフに上陸しました。
この上陸の知らせに、トマス・ランダルフ伯は急いでファイフに向かいますが、
その途中で急死しました。
摂政には同じくブルースの甥の一人マー伯ドナルド・マーDonald Mar,Earl of
Mar,が継いで、エドワード3世との決戦に備えました。が、マー伯は8月
12日Dupplin Moorでの夜戦に戦死し、スコットランド軍は敗退しました。
エドワード3世はベイリャルや味方についたスコットランド貴族とスクーン
に向かい、ベイリャルは9月24日戴冠しました。

エドワード・ベイリャル王はイングランド王エドワード3世に臣従を誓い、
ベリク(the shire of Berwick)を提供すると申し出ました。(大関さんの
ご質問の場所)
この弱腰な態度に怒ったアーチボルド・ダグラス卿(Sir Archibald Douglas)
やアンドゥリュー・マリー卿(Andrew moray of Bothwell)らが反乱し、13
32年12月ベイリャル王をカーライルの西北アナン(Annan)に破りました。
この時ベイリァル王はシャツと片足は長靴(in his shirt and one boot)でイ
ングランド領内に逃げたそうです。

傀儡政権ベイリャル王を作ったエドワード3世は1333年6月、アーチボル
ド・ダグラス卿が支援のフランス海軍と立てこもるベリクの町に軍を進め、フ
ランス海軍を追い払い、町の北ハリドン・ヒル(Halidon Hill)でアーチボルド
の軍を殲滅し、アーチボルドは戦死、ベリクの町を力で取り戻しました。

これを見て、ローランドの貴族、聖職者はころりと態度を変え、イングランド
に靡きました。このためもう一人の王10歳のデイヴィッド2世は13歳の王
妃ジョアン(イングランド王エドワード3世の妹)とともに、1334年王妃
の母イザベラの母国フランスのフィリップ6世を頼って亡命しました。

以後1341年帰国するまで7年間フランスのシャトー・ガイヤール(Chateau
Gaillard)で亡命生活を送りました。この間のスコットランドはデイヴィッド
2世の甥ロバート・ステュワートが摂政を務めています。

以上100年戦争前の対スコットランド政策は、祖父エドワード1世の政策の
ように、イングランドに靡くスコットランド貴族に飴を、反抗する王や貴族に
は厳しい鞭をという政策をとったといえましょう。

100年戦争後は様相が変わると思いますのでまた連絡します。

とりあえず回答します。
1997.5.20


QUESTION
題名:Re: エドワード3世の対スコットランド政策

Date: Sat, 24 May 1997

スコットランドとエドワード3世についてありがとうございます。

山川出版社の「世界歴史大系 イギリス史1」を読みながらスコットランドの
イングランドに対する抵抗について学んでいます。大杉さんは、なにをお読み
でしょうか?

スコットランドのフランスとの同盟関係は、大陸でも有効に発揮されるのです
が、ブルース家とベイリアル家の抗争などといった対立要素があったのは初め
て知りました。この時代は、対立皇帝に対立教皇と、常にライヴァルとその裏
側に潜む陣営があり、それが複雑に絡むので理解するのに一苦労です。

また、ミシュランの地図を丸善で買ってきたので、地名に関してはなんとかな
りそうです。


T.O.カノッサ


REPORT

SUB:Re エドワード3世の対スコットランド政策(2)

すでにご承知の史実と思いますが、私のホームページ原稿かたがたまとめてみ
ましたので、ご迷惑でなければお読みください。

参考文献はA CONCISE HISTORY OF SCOTLAND(FITZROY MACLEAN),英国王室史話
(森護)スコットランド王室史話(森護)です。
森さんの話はMacleanの本から取材していると思います。

地図はDISCOVERING BRITAIN(AA)およびBOOK OF THE ROAD(AA)です。どちらも
在英中から重宝しています。たいていのことは判明します。

エドワード3世の対スコットランド政策は、1337年11月フランスとの
「百年戦争」を開始してから微妙に変化します。エドワード3世には相当の
参謀がついていたと私は推定しています。

(1)傀儡のベイリャル王の処遇
エドワード3世は、スコットランドを追われ、命からがらイングランドに逃
げてきたベイリャル王を、スコットランドの王として処遇しました。
このためイングランドに亡命したスコットランド王とフランスに亡命したデ
ィヴィッド2世の二人の王がいることになりますが、エドワード3世は両者
の併存を終始否定しない老獪な政策をとりました。

(2)摂政ロバート・スチュワートの治世
両王不在中のスコットランドを取り仕切ったのは、故ロバート・ブルース王
の孫で、ディヴィッド2世の甥(ただし7歳年上)ロバート・スチュワート
でした。
彼はスコットランドの母系王位継承権(タニストリー)がありましたが、王
位を簒奪することなく、摂政の地位のまま留守の王国を守っています。
すなわち1334年にディヴィッド2世が亡命してしばらくはイングランド
と事を構えず穏便に治めていますが、エドワード3世がフランスとの戦にの
めりこむと、着々とスコットランドからイングランド軍を駆逐しました。

西部ビュート島(Bute)からイングランド守備隊駆逐
1338年、フォース湾南部東岸ダンバー城(Dumbar)の防衛戦に成功。
1339年フランス軍支援の下、古都パース奪還
1340年フォース湾北部からイングランド軍一掃

エドワード3世にはこの時スコットランドに手が割けず、この程度の後退は
やむを得ぬと考えたと思います。
一方、ロバート・スチュワートは、エドワード3世が対フランス戦に主力を
割いているにも拘わらず、せいぜいスコットランド領内のイングランド駐留
軍を駆逐する程度で、これ以上のイングランド侵略をしていません。
内々密約をしていたのではないかと推定します。

(3)帰国後のディヴィッド2世
ディヴィッド2世の王妃ジョアン(エドワード3世の妹)の母イザベルはフ
ランス・カペー王家の出身でしたが、フィリップ6世はヴァロア王家初代の
王でした。
フィリップ6世は、ロバート・スチュワートが、スコットランドからイング
ランドを駆逐する様子を見て、17歳になったディヴィッド2世に、両者が
イングランドのエドワード3世と戦おうと帰国を勧めました。
これによりディヴィッド2世は1341年フランスから帰国し、親政を敷き
ました。

ディヴィッド2世は怠惰な性格で、老獪なフィリップ6世にそそのかされた
イングランド反抗のみを夢見ているだけでした。国力が疲弊し、イングラン
ドへ攻め込む余裕が無かったようです。このような暗愚の王を見越してか、
ロバート・スチュワートは摂政を辞任しています。

1341年から1346年までの間は英仏間の戦に大きな進展はなく、エド
ワード3世の対スコットランド政策にも動きはありませんでした。

(4)1346年8月クレシーの戦いとネヴィルズ・クロスの戦い
この間満を持したエドワード3世は1346年7月イングランドを出発、ノ
ルマンディに上陸し北上、クレシーの戦で長弓部隊が活躍し、フランス軍に
大勝しました。

フランス王フィリップ6世はスコットランド王ディヴィッド2世に、手薄に
なっているであろうイングランドを北から攻めるよう要請しました。これを
受けて、ディヴィッド2世は10月、3万の軍団を率いて南下し、イングラ
ンド北西部まで進入しました。

イングランド軍と遭遇したのはダラム(Durham)南西ビショップ・オークラン
ド(Bishop Auckland)近郊ネヴィルズ・クロス(Neville's Cross)でした。
しかしイングランド軍は予想に反し王妃フィリッパ・オブ・エノー(Philippa
of Hainault)率いる精鋭部隊でした。この戦いでスコットランド軍は完敗し、
ディヴィッド2世は重傷を負い、捕虜となりました。

王妃フィリッパ・オブ・エノーはディヴィッド2世の傷の治療のため、王を
一旦ベリク(Berwick)の南20マイルの海岸バンバラ(Bamburgh)城に送り、
年末ロンドン塔に移送しました。
イングランドは対フランス、対スコットランド政策で優位に立ちました。

スコットランドでは再びロバート・スチュワートが摂政に選ばれ、さらに運
営しやすくなりました。

以上が第二段階でしょう。

二人のスコットランド王を掌中に収め、人物の分かったロバート・スチュワ
ートが再び摂政になったスコットランドに対するエドワード3世の政策は、
いよいよ第3段階にはいると考えます。

ではまた ご迷惑ではありませんか
1997.5.25


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