プリンス・オブ・ウェールズの故事(前頁より)


首長を失い、武力で平定されたとはいえ、ウェールズ人が決定的にイングランドの
支配下になったわけではない。ウェールズの国民には古代ローマ軍団やアングロ・
サクソンさらにはアングロ・ノルマンの度重なる侵略に抵抗し、自由と独立を求め
て来た血が脈々と流れている。

武力平定だけでは誇り高きウェールズ公国の統治が難しいと考えたエドワード一世
は、王妃エリナーの懐妊を知り、一計を思いついた。
もし男子であれば、リュウェリン・アプ・グリフィズで断絶したウェールズの首長
「Prince of Wales」に、その子を任命し、ウェールズ人との融和をはかろうと考
えた。
そのためには出産はウェールズでしなければ意味がないと、身重のエリナー王妃を
ウェールズ北西部の要衝カナーヴォン城に呼び寄せた。

1284年4月25日、王妃はエドワード一世の念願通り男子(後のエドワード二世)
を出産した。
エドワード一世は、ウェールズの代表を招き、
「A Prince of Wales who could speak no English」「ウェールズで生まれ、英語
を全く話さない正真正銘のウェールズの首長だ」と紹介し、ウェールズの代表たち
をいたく感銘させたという。

しかし史実では、エドワード二世がカナーヴォン城で生まれたのは事実であるが、
「プリンス・オブ・カナーヴォン」と呼ばれ、「プリンス・オブ・ウェールズ」に
叙位されたのは17歳の時という。
いずれにせよエドワード一世の時からイングランド王の最年長の王子は「プリンス・
オブ・ウェールズ」と名乗るようになった。


さようなら英国の薔薇ダイアナ、プリンセス・オブ・ウェールズ

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