悲しきポピーの日

(前頁より)



美絵夫人の亡き父親は技術者であったが、太平洋戦争に召集され、南洋
上で戦死していた。輸送船沈没の悲報が届いた時、美絵夫人はまだ小学
生であった。

「レッド・ポピーの花を抱いた老人は、シンガポールの激戦かクワイ河の架
橋か、バターン死の行軍か知らないが、日本に相当よくない印象を持って
いるのだろう。でも、美絵もまた戦争犠牲者の一人であることを知ったら、
背中など向けなかっただろうになあ」

日英二人の戦争犠牲者の心の傷は深い。


英国を旅してみると、町や村の中心地に戦没者慰霊の記念碑などをよく
見かける。

「国のために尊い命を捧げた人々たちに感謝し、その冥福を祈る」と彫ら
れている。憶良氏が少年の頃、日本の町や村でも必ず見かけた風景であ
る。

しかし、アメリカ軍の占領とともに、これらの戦没者慰霊の石碑は、跡形も
なく取り壊された。アメリカから見れば、日本の軍人はすべて帝国主義の
侵略戦争に加担した憎き兵士に見えたのであろう。しかし、大多数の兵士
は平和な時には、平凡な町民や村民であったはずである。

アメリカ軍に敗れた当時の大人たちには、GHQ(General Head Quarter)
の命令に抵抗する気力はなかった。かくして日本の市町村から、戦没者
の冥福を祈る慰霊碑は、軍国主義のシンボルとして、たちまちのうちに消
滅した。




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