ロンドン憶良の世界管見


欧米列強に翻弄された”自由の国?”リべリア(3)


リベリア史に見る欧米大国の覇権主義と
独裁政権の土壌




リベリアの歴史は欧米列強の覇権主義の凝縮である。植民地政策
による圧政。独立運動。独裁者と内乱。先進国による近代化支援な
どの様々な問題を提起している。

独裁者タイラー大統領が亡命を余儀なくされ、アメリカの平和維持
軍の派遣が囁かれている2003年7月現在までの歴史を概観しよう。

1 殖民国家の建国

リベリアは、その国旗に見られるように、建国の時からアメリカとの
関係が深い。



かって胡椒海岸とか穀物海岸と呼ばれてはいたが、アフリカ西岸に
は近世まで『国家』という概念は存在しなかった。

この海岸に殖民国家を建国しようとしたのはアメリカであった。
アメリカ殖民協会は、1821年、解放奴隷を移民させ、『自由(Liberty)
の国リベリア』と名付けた。
さらに1833年には、別にメリーランド独立アフリカ国も作られた。
(建国の経緯は、隣国シエラレオネと類似している)

1847年、バージニア州出身の混血人ロバーツが、アメリカ憲法を模倣
した憲法や政治組織を作り、共和国として独立した国家を宣言した。
リベリアはアフリカ大陸では最初の共和国であった。国旗もアメリカ
を模倣した。
1857年にはメリーランド独立アフリカ国を併合した。

しかし、アメリカから独立し、自分達の国家建設の理想に燃えたのは
人口の僅か5%にも満たないアメリカから移民してきた解放奴隷たち
だけであった。彼等はアメリコ・ライベリアンと呼ばれた。

彼等は特権を持つ支配階級として、95%を占める原住民に君臨し圧
迫した。(シエラレオネのクリオーネと同様である)


2 英国の財政支援

リベリアの独立を最初に承認したのは英国UKであった。
1871年、財政危機に瀕したリベリア政府は、英国政府に援助を求め、
以後英国政府はリベリアの財政支援に協力した。

3 欧米への利権提供

1904年以降、リベリア政府は自国の資源を欧米列強へ利権として提
供し、財政支援や技術支援を求めた。

1917年、第一次世界大戦では、リベリアはドイツに宣戦布告し、連合
軍に、西アフリカでの軍事基地を提供した。


欧米への利権提供の最も典型的な事例は、1925年から26年にかけ
てのアメリカの巨大資本ファイアストーン(Firestone Tyre and Rubber
Company )への土地提供であった。

ファイアストーン社は、総額250万ドルの借款を供与する見返りに、広
大な土地を租借して、大規模な天然ゴムのプランテーションを開いた。
この借款によって、リベリア政府の財政は安定した。

しかし植民地的プランテーション経営は、原住民に対する圧政と過酷
な奴隷的強制労働であったので、世界の批判を浴びることになった。
(解放奴隷の子孫が特権的な支配階級となって、間接的にであるが、
原住民を新たな奴隷にしていたのは、歴史の皮肉な結果である)

1931年、国際連盟は、奴隷的強制労働の査察に入ることを決めたが、
リベリア政府はこれを拒絶した。
英米両国は、リベリア政府の対応を非難して、外交関係を断絶した。

1936年、強制労働の慣習は改善され、解消した。

4 アメリカ政府・資本の積極的関与

1939年第二次世界大戦の勃発以後、アメリカ資本はリベリアの地下
資源開発に積極的に乗出した。豊富な鉄鉱石やダイヤモンドがあっ
た。

1943年、ウィリアム・タブマンが大統領に選任された。リベリアはアメ
リカの政治組織を模倣していたが、選挙権はアメリカン・ライベリアン
の男子にしかなく、実質はトル・ホイグ党の一党独裁政治であった。
以後1971年逝去するまで、実に28年間タブマン大統領は権力の座に
あった。

1944年、リベリア政府は枢軸国(ドイツ・イタリア・日本)に宣戦布告
した。(枢軸国の敗色は明らかであった時期である)

第二次大戦後の1947年以降、アメリカ政府はリベリアの支援に積極
的に乗りだし、政治の安定と資源開発を進めた。

1951年、アメリカン・ライベリアンの女子と、原住民の土地所有者に
大統領選挙権を拡大し、さらに1957年には人種差別を撤廃した。

5 ソ連の関与

1971年、独裁者タブマン大統領が逝去し、ウィリアム・トルバーJr
が新大統領になった。
1974年、タブマン大統領はソ連からの支援を受け入れた。

1978年にはEEC(the European Economic Community)との貿易協定
を締結した。アメリカ一辺倒からの脱皮であった。

6 国内政治の不安定

1979年、米の価格値上げ問題から暴動が発生し、40名以上が死亡し
た。
1980年、下士官サミュエル・ドー曹長が軍事クーデターを起こした。
反乱軍はトルバー大統領と側近12名余を殺害し、自らを首班とする
人民会議を主導。従来の憲法を停止し、全権を掌握した。

1984年、米国や他の借款供与国などの圧力もあって、サミュエル・
ドーは政党の復活を認めた。
1985年、ドーは選挙で大統領に選任された。

7 タイラーの台頭

1989年、チャールス・タイラーに率いられた反政府組織であるリベリア
愛国戦線NPFL(National Patriotic Front of Liberia )が台頭してきた。

1990年、内乱の拡大を懸念した西アフリカ経済共同体「ECOWAS」
( Economic Community of West African States )は、平和維持軍をリ
ベリアに派遣した。しかしその対策も奏功せず、NPFLの過激派はドー
大統領を殺害した。

1991年、ECOWASとNPFLは、武装解除に合意して臨時政府を発足さ
せた。

1992年、NPFLは約束に違反し、首都モンロビアに滞在する平和維持
軍を国外退去を求めて攻撃した。これに対して平和維持軍もNPFL軍
の基地に反撃した。

1993年から1995年にかけて、幾度となく停戦協定が模索され、反古
になり、内戦が続いた。

1996年、ようやく平和維持軍は道路の地雷を除去し、難民は復帰した。
1997年、国際監視団の立会いの下に選挙が行なわれ、タイラーが圧
倒的な勝利を収めて大統領に選任された。

8 国境紛争と内戦

1999年、ガーナとナイジェリアは、シエラレオネの反政府軍を支援す
るリベリアのタイラー大統領を激しく非難した。
リベリア政府はシエラレオネの反政府軍のダイヤモンドを買い上げ、
共産圏製の近代的武器を供与していたからである。
アメリカと英国は、リベリアへの経済支援を停止すると圧力をかけた。

リベリアとギニアの国境で相互の国境紛争が起こり、多数の難民が
発生した。

2000年、リベリア内部でタイラー大統領の政府に対する反乱が北部
で多発し、リベリア政府は反乱軍の背後にギニアがあると反論。
北部の反政府活動に大規模な軍事行動を行なった。

2001年2月、リベリア政府は、シエラレオネ反政府活動のリーダーで
あるサム・ボッカリエ(通称「蚊」)はリベリアから立ち去ったと表明。

2001年5月、国連安保理事会は、シエラレオネ反政府活動を支援す
るリベリア政府に対する制裁措置として、武器禁輸を決議した。

2002年、国内でタイラー大統領に反対する民主化要求の反政府活動
は一層活発となり、これを抑える政府軍との抗争で多数の難民が発
生している。タイラー大統領は、国内に戒厳令を発動した。

9 タイラー大統領亡命の動き

2003年に入り、反政府活動の軍事行動は、首都10kmに迫り、また
北部のみならず東南部でも民主化運動は高まってきた。

ガーナ政府がタイラー大統領と反政府グループとの間に立って、内
戦の停止を斡旋し調印したが、依然として戦闘は続いている。

タイラー大統領はシエラレオネの戦犯として告訴されているが、逮捕
令を無視している。しかし、反政府運動を抑えることは難しく、ナイジェ
リアに亡命しようというのが実情である。

内戦を抑えるのにアメリカ主導の平和維持軍の派遣が望まれている
が、ブッシュ大統領は目下思案中の模様と伝えられている。


上記は手許の小学館大百科事典と、最近入手したBBC NEWS WORLD
(10June2003)(5July2003)のデータで作成した。

列強の植民地政策に圧迫され、独立後は独裁と内戦に翻弄される
途上国の抱える問題は、いつ解決されるのであろうか。
ここにも民族・部族の対立抗争と、どうにもならない個人の権勢欲の
しがらみが見られる。


 
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