英国とアフガニスタン(3)


英国の大軍団が全滅した第一次アフガン戦争
(続き)


 引き続き手元の資料「Cassell's Illustrated History of England」など
より推移を見よう。

5 ジャララバード要塞の死守

 カーブルからジャララバードへと、峠道を掃討して到着していたセー
ル少将は、英軍と軍属家族16,500名が撤退の途中全滅したとのブラ
イドン博士の報告に驚いた。妻の安否が気遣われた。

 傀儡のシャー王から手紙が来た。アフガニスタン側と講和し、英人
幹部階級婦人など多数を人質に残して、国を出ると書かれていた。
インド総督府はジャララバードを見捨てたのではないかとの憶測する
将校もいて、守備か撤退か軍議は一時紛糾した。しかし、救援軍編
成中との連絡が来て、セール少将は徹底抗戦を決めた。直ちに城塞
の守りを見直し、堀を深くし、防壁の修築を行った。
 まもなくアフガニスタン軍が襲撃してきたが、セール少将は撃退し、
要塞を守り抜いた。

 悲報はジャララバードの基地から北インド(当時)のペシャワール基
地ワイルド準将(少将と大佐の間の階級)の許へと伝わった。
 ワイルド準将はカイバー峠の街道を抑えるべく、手許の兵員の半数
を割いて、ジャララバードとペシャワールのほぼ中間の要地アリ・ム
スジッドの要塞へ派遣を決意した。
 アリ・ムスジッドの要塞は、ペシャワールから25マイル(約40キロ)
カイバー峠へは僅か5マイル(8キロ)の地点にある。

 ワイルド準将の部下であるシーク兵たちは、カイバー峠一帯を支配
する山岳部族の勇猛さと厳冬の峠道の困難さに、前々から出撃を尻
込みしていた。しかし事態は深刻であった。ジャララバード支援のため、
給金を増やす条件で、1月15日、準将は部下を進軍させ、要塞を確保
させた。しかし何日たっても、食糧や弾薬補給の輜重部隊の手配がう
まくいかずに、撤退せざるを得なかった。牛馬の所有者たちが、ペシ
ャワールから西への運送を嫌がったのであった
 
 一方インド総督府は、ポロック将軍を総指揮官として、パンジャブ地
方で12,000名の大軍団を編成した。シーク教徒兵や、セポイと呼ばれ
たインド兵が中心であった。軍団は2月5日ペシャワールに到着した。

 ポロック将軍は、すぐには出撃しなかった。カーブル駐在軍全滅の
様子やシーク教徒兵の戦意、アリ・ムスジッド要塞の放棄などを詳細
に分析した。ペシャワールで、3月末まで2ヶ月間、軍団の再編成と訓
練および戦意の向上を計った。

 2月19日、アフガニスタンで大地震が起こった。カーブルからペシャ
ワール間の街道は瓦礫の山となった。あちこちの都市の建物や城塞
が壊れ、復旧に数ヶ月を要した。

 しかし、この時ジャララバード要塞の守備兵は、一致団結して即時
に城塞の再構築を行った。地震の影響が全くないように見えた。
 アフガニスタン軍の指揮者アクバル・カーン王子は、
「地震はイングランドの魔女の仕業に相違ない。何となれば奴らの立
て籠もるジャララバード要塞だけが、被害を免れているではないか」
と言ったという。
 蓄えは細くなったが、セール少将麾下の士気は高かった。

6 英軍の再侵略と全面撤退

 4月4日早暁、ポロック将軍の出動は極秘に静粛に行われた。
 従来ならば、日中士気をを鼓舞するように、軍楽隊を先頭に威風
堂々出撃したであろう。しかし、それは相手に出撃を公示することに
なる。
ポロック将軍は、峻険な峠の入り口にある砦を落とすには、防備体
制のとられる前に、大軍で急襲する以外に、戦術はないと考えてい
た。雪解けを待ち、岩山を上り下る特殊部隊の訓練をしていたので
あった。

 峠への登り口に堅固な急造の塞が築かれていたが、ポロック将軍
の軍団は気づかれることなく近づいた。一部の兵が密かに崖を上り、
あちこちに点在するアフガニスタン狙撃兵の拠点を見下ろす位置に
ついた。

   突然背後や上からの発砲と喚声に、守備兵は崩れた。
アフガニスタン兵はアリ・ムスジッド要塞に逃げたが、英軍の火力の
前にこの要塞も落ちた。

 ポロック将軍は、カイバー峠の守備に一軍を置き、さらに進んでジ
ャララバード要塞に入城した。ポロック将軍麾下の軍団と守備軍は、
大歓声をあげ、合流を喜んだ。

 しかし、実は将軍の軍団が到着前に、セール少将指揮下の守備隊
約2,000名は、城塞を出て、6,000名の兵を擁するアクバル・カーン王
子の軍団に平原で果敢な大決戦を挑み、アフガニスタン軍を粉砕し
ていたのであった。

 ジャララバード要塞には、アクバル・カーン王子側から、
「ポロック将軍はカイバー峠の攻撃に失敗、多くの戦死者を出して退
却。彼は葬典の礼砲を鳴らした」
「カーブルで革命があり、軍団は解散した」
など、様々な偽情報が流されていた。

 英軍と音信不通のジャララバード要塞内では、作戦会議が開かれ、
冷静なヘイヴロック参謀が、城を出てアクバル・カーン王子の軍営に
直接野戦を仕掛けるという決死の案を提案したのであった。
 ヘイヴロック参謀には成算があった。アクバル・カーン王子は受け
て立った。果敢な英軍の攻撃に、3倍のアフガニスタン軍は破れ、敗
走したのであった。

 それだけに、ジャララバード要塞軍がポロック将軍を迎えた時は、
夢のような二重の感激があった。

 英軍はカーブルに進軍し、再びアフガニスタンの支配権を獲得した。

 混乱していたカーブル撤退の状況も次第に判明した。雪中の退却
では全滅したと思われていたが、英軍幹部の夫人たち数名や将校兵
士らが捕虜となっていたことが判明した。この中にセール少将夫人も
含まれていた。

 捕虜は、山岳地帯の要衝バーミアンに移送されていた。バーミアン
には岩に掘られた無数の仏教岩窟寺院遺跡があり、攻め難く守り易
い地形であった。 アフガニスタン側は、身代金引き替えに捕虜釈放
と、講和の交渉を持ちかけてきた。

 9月3日、セール少将がポロック将軍の名代として部下を率いてバ
ーミアンに到着、救出は成功した。

 英軍傀儡の王、シャー・シュジャーは民衆に暗殺されていた。英軍
はシャー・シュジャーの息子を再び王につけたが、アフガニスタンの
国民は強い反感を示し、再び激しいゲリラ的な抵抗が始まった。

 インド総督府は、アフガニスタンを軍事的に支配のためには、拠点
となる都市に大部隊を配置せざるを得なかったが、これには食糧や
弾薬、資材の供給などに巨額の財政負担を要することが分かった。

 冬になれば、厳しい地形と天候が、交通通信を遮断する。傀儡の王
では政治は壟断できないだけでなく、暴動反乱の勢いは激しくなるば
かりである。

 英国政府はインド総督を更迭した。10月1日、新総督は幽囚の前王
ムハンマドを復位させ、アフガニスタン統治を任せ、英軍は全軍撤退
する方針転換の声明を行った。

 英国の第一次アフガニスタン侵略は僅か3年で失敗した。

 

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