UKを知ろう

英国とアフガニスタン(3)

英国の大軍団が全滅した第一次アフガン戦争



帝政ロシアと大英帝国が狙ったアフガンの地の利

 前回で、アフガニスタンが東西に走るシルクロードと南北の交通に
より、いろいろな民族の侵略を受け、諸々の文明の影響を受けて来
た歴史と、19世紀初頭、遂にアフガニスタンの氏族国家を創設した
経緯までを概説した。

 アフガニスタンの地理的条件は、19世紀になっても世界の大国の
帝国主義の食指を呼んだ。

 1818年以来アフガニスタンの実権を掌握したドースト・ムハンマドは、
南下するロシアと、これに神経を尖らせていた大英帝国との間に立っ
て、厳しい状況にあった。

 事態が激変したのは1837年であった。
 アフガニスタンは、1838年から大英帝国と三度にわたり戦い、独立
国家となった史実は意外に知られていない。

第一次英・アフガニスタン戦争(1838-1842年)
第二次英・アフガニスタン戦争(1878-1880年)
第三次英・アフガニスタン戦争(1919年)

 それはアフガニスタンにとっては、勇気・自由・独立を表象する「パ
シュトゥーン精神」(パシュトゥヌワレイ)を掲げ、80年の歳月をかけた
祖国防衛の民族戦線の勝利であった。

 この民族精神は、後年ソ連の侵略に対しても同様に発揚された。
つまり20世紀のソ連軍は、19世紀の英・アフガニスタン戦争の戦訓
を全く無視し、英軍同様に無惨な敗退をしたことは記憶に新しい。

 そこで19世紀から20世紀初頭にかけての英・アフガン戦争をやや
詳しく紹介しよう。単なる戦争の駆け引きの実例ではなく「大国の帝
国主義植民地戦略とその失敗」の事例として参考になるからである。


 
第一次英・アフガニスタン戦争

1 ロシアの南下阻止

 18世紀から19世紀にかけて、東インド会社を中心に、大英帝国は
インドを植民地としてアジアに強大な勢力を広げた。当時パキスタン
はまだ独立してなく、インドの一部であった。この大英帝国にとっての
脅威は、世界の大国ロシアの南下であった。

 1837年、ロシアはまずペルシアに進出し、アフガニスタン西部の都
市ヘラートを攻撃した。

 南下を狙うロシアを抑えるには、緩衝地帯であるアフガニスタンを、
大英帝国の支配下に置くべしとの方針が決議された。

 1837年、当時のインド総督府は、まずアフガニスタンの統治者であ
るカーブルの族長ド−スト・ムハンマド(ドスト・モハメッド・カーンとも
いう))王に、同盟の予備交渉を行ったが、英国侵略の腹を見抜いた
王は拒否し、不調に終わった。

 そこで英国は、亡命中のシャー・シュジャー王子を支援し、傀儡的な
王にして、友好的な権力統治勢力を確立しようと画策した。

 当時、ドースト・ムハンマド王は14,000の兵を擁し、内6,000が騎兵
という大軍であった。さらに、ドースト・ムハンマド王の兄弟たちが、
南部の都市カンダハールおよび周辺地域に4,000の兵と大砲を50門
保有していた。

 したがって英軍がシャー・シュジャー王子をアフガニスタン国王にする
ためには、軍事力でこれを上回る大軍を組織する必要があった。



2 インダス軍傀儡政権を樹立

 インド総督府は、28,000の軍団を組成した。その中にはインド北部
パンジャブの太守が提供したインド・シーク教徒兵6,000や、シャー・
シュジャー一族の挙兵した5,000の兵も含まれていたので、連合軍は
『インダス軍(The Army of Indus)』と呼称された。
最高指揮官にはジョン・キーン(Jhon Keane)卿が就任した。

 1838年、連合軍はまずカンダハールに進軍した。大軍団のインダス
軍に、カンダハルのアフガン軍は逃亡し、ほとんど無抵抗のまま占領
した。

 翌1839年5月8日、シャー・シュジャー王子はカンダハールで戴冠し、
英国の傀儡の王となった。
 インダス軍は首都カーブルに向けて進軍した。
カーブルに至る街道には、難攻不落の要塞として知られていたガズ
ニ(Ghazni)の城があった。

 しかし、圧倒的な軍備を誇るインダス軍の前に、砦は爆破され落城
した。インダス軍は、易々とカーブルに到着した。

 新王を呼称するシャー・シュジャーは首都に8月7日正式に入城した。
カーブルの族長ドースト・ムハンマド王は無条件降伏し、自ら囚人と
なった。

 前述したように、アフガニスタンは、地形複雑で、部族の人種も多様
であった。しかも勇気・自由・独立を表象する「パシュトゥーン精神」は、
容易に傀儡政権を認めなかった。シャー・シュジャー王とインダス軍は、
他の族長たちを臣従させることには成功しなかった。

 カーブルを占領し、前王を囚人として捕らえたインダス軍は、所期の
目標を達成したと判断して、8,000の兵をシャー・シュジャー王に残して、
インドに引き揚げた。

 2年間、シャー・シュジャー王とインダス軍はカーブルとカンダハール
を占領した。

 何事もないように見えたが、この間に族長たちは密かに会合し、戦
闘力の強化に努めていた。嵐の前の静けさであった。

1841年11月2日、首都カーブルで大事件が勃発した。



(次頁へ続く)

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