私のジャズ歴書  (パ−トVIIII 最終回)

August 14, 1999 Lat Up Dated

28.大学生活

大学入学後はしばらく、真面目に授業には出ていたのだが、何せ夜は夜中までバンドマン生活である。段々授業から足が遠のいていくのは、高校時代と変りがなかった。試験前と試験の時しか学校には顔を出さないようになってしまった。しかし中大は必修科目の出席がうるさくて、特に体育は1,2年で4科目履修しなければならなかった。シ−ズンコ−スでカバ−するという事は許されなかったのである。ことごとく体育科目の単位を落とした私は最終学年まで体育を引きづって行くのである。ひとり住まいをしていた下高井戸のアパ−トは友人たちの絶好のアジトと化していた。夜中にはTやIや、誰かしらがサントリ−レッドの瓶を抱えてやって来た。サントリ−レッドが家へのパスポ−トみたいになって、毎晩1本づつ空瓶が増えていった。やがて、家のほとぼり(倒産騒ぎの)も覚めたころ、代々木上原に両親と小さな借家を借りることになり、家族同居の生活に戻ることになった。父親も会社勤めを始めた。しかし生活費、学費は自分でかせがなければならないのは同じで、キャバレ−バンドを2ヶ月やったら、1ヶ月は休んで、というパタ−ンだったが、1ヶ月休んでいる間は勉強するでもなく、代々木界隈で飲んだくれていた。バンドの仕事が無い間、4,5ヶ月ナルで再びバイトした事もあった。丁度この頃ナルのオ−ナ−、成田さんは全日空のスチュワデスであった美人の奥さん、美紗子さんと結婚した。ナルでは主に昼間働いたので、ますます学校から足が遠のいていた。折しも学校では70年安保の学生運動が爆発前夜の状況に入りかけている時代だったっが。私が入学した年から学園祭である白門祭は中止が宣告されていた。あと昼間のバイトでは、二階クィンテットで一緒だったベ−スの中山憲一さんがペコちゃんでお馴染のお菓子のF社に就職していたので、銀座のF社の本社に事務のバイトとしてお世話になった。中山さんにもエピソ−ドがあって、F社に就職後、1年間、彼は工場でアンコをコネる仕事ばかりさせられていたそうだ。それに嫌気がさした彼は会社を辞めミュ−ジシャンに戻ることを真剣に考えたあげく、やはりバンドで一緒だったピアノの佐藤修弘さんに相談した。佐藤さんはそれより早くミュ−ジシャン生活を送っていたことは前章で述べたと思うが、佐藤さんは中山さんの為にバンドの仕事を探すこととなり、ピアノの八城一夫さんのバンドに仕事口を見つけてきてくれた。これで会社に辞表をと思った矢先に、会社から本社勤務の辞令を受けたのである。かくして中山さんは、佐藤さんに平謝りに、サラリ−マン生活を続けることにあいなったのである。そのF社のバイトではさまざまな仕事、一般の集計事務だけに留まらず、レストランのマ−ケティングリサ−チとか、色々な事をやらしてもらうことが出来、社会勉強に多いに役立たせることが出来た。

キャバレ−の方はというと、横浜、錦糸町、浅草、小岩、武蔵小杉などなど様々な所で働いたが、たまのトラの仕事以外は都心とは離れた場末の店が多かった。印象深い店としては、福富太郎経営になる、かのチェ−ン店、「ハリウッド」がある。あちらこちらのハリウッドで仕事をしたが、何処の店も託児所や福祉施設が整っており、裏方さんたちには、身障者の人たちが多く働いていた。福富太郎氏はその頃さかんにテレビ等に登場して人生相談などをやっていたが、その相談に来た恵まれない環境に居た女性などを実際にホステスとして採用したりしていたのである。口だけの人が多いマスコミの世界に、こういう事を実践している福富氏を意気に思ったりもした。二階さんが仕事をしていたロンドン・チェ−ンにも行ったことがある。キャバレ−の営業中、ふたりでフレディ・ハバ−ドの「レッド・クレイ」などを吹き、お客から怒られたりもした。 この頃にはテナ−の呉石次郎さんなんていう人もいた。レスタ−・ヤングそっくりにテナ−を朗々と吹きあげる人だった。今は、どうしているのだろうか。

29.ジョ−・ヘンダ−ソン

あこがれのジョ−・ヘンダ−ソンが単身初来日することを知った。銀座8丁目にあった「ジャンク」に一週間出演するというのである。2日分の予約をとった。1回目はそのF社の中山さん、そしてF社のレストランで弾き語りのバイトをしていた、まだ無名に近かった五輪真弓と銀座で待ち合わせをし、軽く食事を済ませて「ジャンク」に向かった。五輪真弓にはこの時彼女の初めてのコンサ−トを青山タワ−ホ−ルで開くのでチケットをさばいてくれと2,30枚手渡された。 テナ−を軽々と持ち上げて吹くスタイルのジョ−ヘンはさすが格好が良かったが、実はこの日の演奏は余り記憶に残っていない。ピアノはプ−さんこと菊池雅章さんが勤めていたが、他のメンバ−も思いだせない。でもこのサイドメンがおおかたこのライブの共演を勤めたのだが、最終日は、我が市川秀男師匠、ベ−スに稲葉国光さん、ドラムに日野元彦さんというメンバ−だった。この日の演奏はご機嫌で、今でも記憶に残っている。この日は大徳俊幸と一緒に見に行った。日野晧正バンドのメンバ−も見に来ていた。マネジャ−の横井も丁度来ていて、当時日野バンドに抜擢されていた植松孝夫さんが、私の横で横井にバンスをねだっていた。横井に言わせれば、当時の植松さんは東京バンス・キングだったらしい。休憩時間、私はカウンタ−でひとりウイスキ−を飲むジョ−・ヘンダ−ソンの側に近寄って行って、おもむろに話しかけた。「ちょっと話しをしてもいいですか?」 「ああ、勿論いいよ。」「実は僕もテナ−サックスやってるんですけれど−−−。」しばらく楽器などの話しをして、「どうやったらあなたのようにテナ−が吹けるようになるのでしょうか?」 「それは答えはひとつしかないよ 「 Practice !  Practice !  Practice ! 」この言葉は今でも鮮烈に耳に残っているが、果たして教えを実行したかどうかは余り自信がない。その時、自分が着ていたT−シャツにサインをしてもらった(ミ−ハ−)。その時代だからT−シャツにサインをもらう草分けかもしれない。そのT−シャツは色あせてしまったが、今でも家宝として残っている。その晩の演奏は本当にエクサイティングだった。後にアルバムとしても発売されている。そのずっと後に「ブル−ノ−ト東京」や新宿「カ−ニバル」の来日ライブに行った時にジョ−ヘンと話しをする機会を得たが、彼はあの時が最初の来日だったこともあってか、「ジャンク」での私の事を覚えていてくれた。あの「ジャンク」でのセッションは自分でも一生忘れない思い出だと語っていた。

30.天才ギタ−少年

大学も一応3年生になっていただろうか、生活パタ−ンは以前と一緒でバンドマン、アルバイト、酒浸りは変わっていなかったが、オスカ−でのライブだけは続けていた。そんなある日、お茶の水ナルの照沼さんから、「今、高校生で凄くいいギタ−が居るので、最近、ナルに出演させているのだけれど、ギタ−トリオでは営業的にもサウンド的にも面白み少ないから、お前そのバンドに加わってくれないか?」というお誘いを受けた。とりあえずライブをやっている時に一度聴きに行くことにした。小柄な童顔のギタ−リストでまだあどけない表情も残っていったが演奏は素晴らしかった。渡辺香津美という名であった。照沼さんの紹介も終わらぬうち、その晩でそのトリオへの加入が決まった。以後、翌週から毎週土曜日の昼の部にお茶の水ナルへ出演することとなった。メンバ−は渡辺香津美のギタ−、ベ−スに当時立教大学在学中であった鈴木憲、ドラムにジョ−ジ大塚さんの弟子でプロミュ−ジシャンとして仕事をしていた佐々木健それに、私であった。閉店後のナルを借りて、一度曲合わせのリハ−サルをやり、それから本番に臨んだ。香津美はその時まだ暁星高校の3年生、それでも処女アルバム「インフィニティ」をもう発売した直後だった。そのクァルテットでの最初のライブの時、地方から香津美のライブを聴きに上京してきたという高校生がいて、そのファ−スト・アルバムにサインをねだっていた。香津美は照れ臭そうにサインしてあげたのだが、それが彼の生涯初めてのサインとのことだった。

ライブを重ねるにしたがって香津美の上手さは増してきた。私も何回かやっているうちに、このバンドが楽しくなってきた。週に1回位、お茶の水のナルの閉店後にリハ−サルを行なった。主に香津美が書き下した新曲を練習するためだった。私は当時流行っていたようなフュ−ジョン系の新曲をコピ−して提供するだけだったが。このバンドも数ヶ月たったある晩、リハの為にメンバ−全員、閉店間際のナルに終結した。その日はどしゃ降りの雨が降っていた。夜中に練習を終えた後、あまり雨がひどいので、ベ−スの鈴木憲が車で皆をそれぞれの家まで送っていってあげるよと提案した。電車もない時間なので我々はおおいに喜んだ。鈴木憲は父親のクラウンに乗っていた。われわれ4人と大きなベ−スを真ん中に乗せたクラウンはドシャブリの中を走り出した。まづいちばん近い鈴木憲がベ−スを家に置いてから、皆を送って行くという事になり、下町に実家のあった鈴木の家に向かった。余りの雨で視界はほとんど効かない。しばらく走っていると、私は頭にズドン、ズドンと2回の衝撃を受けた。しばらくしてふと気がつくと、どしゃ降りの雨の中歩道の片隅で、香津美と佐々木が「大丈夫?、大丈夫ですか?」、と私の目の前に顔を突き出している。「いったい何があったんだよ?」 と、意識もうろうとした私。「あの通りですよ!」と指さされた方を見ると、晴海通り、有楽町駅前JRガ−ドの橋げた の下に右側半分が大破した白いクラウンが止まっている。運転手の鈴木憲も私の傍らで顔から血を流してうずくまっていた。視界がとても悪かった状況下、走行中にガ−ド下の橋げたに車体の右側をブツけたらしかった。とりあえず、皆は私にタクシ−で帰るように勧めたので、とりあえず私が先にその場を後にした。翌朝、鈴木から電話があり、すまないが丸の内署まで来てくれないかというので、偏頭痛がする頭を抱えて丸ノ内警察まで出向いた。私が去った後、現場検証が行われたらしく、担当刑事に事故現場写真を見せられた。車右半分は無残な状態になっていて、右側運転席の鈴木と右後部座席に座っていた私がケガをしたらしく、左側にいた二人、助手席にいた佐々木と私の隣りに座っていた香津美は何ともなかったらしい。「おまえら、あと10センチ右を走っていたら、4人とも即死だぞ。」と刑事に脅かされた。その場は調書を取られて、私は日赤病院へ行って、即刻検査するように言われ、広尾の病院へ向かった。 幸い頭部打撲傷だけで、ムチ打ちとか、大事にはいたらなかったのだが、しかし一歩間違えば、世界の渡辺香津美は存在しなかったかも知れないのだ。

31.最後の挫折

香津美の演奏の進歩は目で見えるくらいの驚くべきスピ−ドだった。あるライブの日、彼はそれまで、ギブソンのレスポ−ルだけを使っていたが、アコ−スティックのウエスタン・ギタ−も持ってきた。ライブ終了後、当時、私がジャズ喫茶で聴いて気に入っていた新アルバム、ラリ−・コリエルジョン・マクラフリンの「スペ−ス」というレコ−ドの話しをして、「あの中のふたりの生ギタ−のデュオ、かっこいいんだよね」と話すと、香津美は「ああ、この曲ですよね」、と言ってやおら、アコ−スティック・ギタ−を取り出すと、その曲を弾き始めた。私は開いた口が塞がらなかった。完璧にまだ発売されたばかりのその曲を弾いたのである。そして、レコ−ドよりも凄い位の内容とテクで。その時から私のジャズ感が変わった。ジャズで喰っていくためには、皆これくらいは出来ないとダメなんだと。自分には、とてもこれだけの才能はない。高校時代からやっていたから、チヤホヤされていただけで、自分には到底そんな実力はないのだと。確かに、峰厚介さん、植松孝夫さん、山口真文さん、目の当たりにした人たちの足元にも及ばないと。そうこう考えているうちに、私は完全にミュ−ジシャンとしては、やっていけないという確信を持つようになっていったのである。

かと言って、すぐに楽器を辞めた訳ではない。香津美バンドもしばらく続き、結局は8ヶ月位続いたであろうか。香津美もいつもパ−フェクトであった訳ではない。このバンドで何回か大学祭とかコンサ−トに行っった事がある。ある日、青山タワ−ホ−ルでコンサ−トを行なった。これは香津美が属する、暁星学園関係の主催のコンサ−トであった。意識し過ぎたのか、この日の香津美は珍しくメロメロで、終わった後に「今日は井口さんに助けられられました。ありがとうございました。」と礼を言われたこともあるのである。

香津美とのライブの時やリハ−サルの時いつも香津美に影のように寄り添い、私たちにお弁当の差し入れをしてくれる、小柄なおとなしい美女がいた。香津美の先生にあたる中牟礼貞則さんのお弟子さんとのことで香津美より2歳くらい年上だったと思う。ある日突然に香津美が切り出した。「実は僕たち結婚しました。」唖然とした。彼はまだ高校在学中だったのである。才人は若い時からやることが違う。私が自分のバンドで「オスカ−」に出演した時、急な事情でピアノが来れなくなってしまった。慌てた私は、渋谷に実家がある香津美に電話をした。すると香津美は「今、期末試験中なんですよ、これ通らないと学校卒業できないから−−」と言うのを無理矢理口説き落とし、彼は仕方なさそうに、アンプとギタ−を抱えて、直にやって来てくれた。その晩の演奏も凄くて、オスカ−のマネジャ−は私そっちのけで香津美に感激していたものだ。結局、香津美はその後「オスカ−」には出演はしなかった。 しばらくしてバンドは私と鈴木憲が音楽上の理由でちょっとギクシャクしだした頃、香津美に自由ケ丘のいそのてるヲ氏が経営する「ファイブ・スポット」に鈴木勲さんの率いるグル−プに箱ではいらないかという話しが舞い込んだ。香津美も最初悩んだようだが、結局良いチャンスなのでという事でその話しを受けることになり、自然、我々のクァルテットは解散することとなった。

ベ−スの鈴木憲はそのままミュ−ジシャンの道を進んだ。大学は卒業したのか、良くわからないが、今田勝トリオとか恵まれたバンドで経験を積んでいったようだ。 数年後、私は会社の仕事でアメリカへ赴任することになったのだが、その渡米直前、六本木の「ミスティ」に寄ったら、丁度、鈴木憲が出演していた。懐かしく思いで話と、会わなかった間のお互いの近況報告をしあい、楽しい時間を過ごせた。もちろん彼のベ−スの腕は一緒にやっていた時とは雲泥の差であった。しかし残念ながら、この時が最後の出会いとなってしまった。私の滞米中に、彼は自殺という形でこの世を去ってしまったのである。まだ24,5歳であったろう、せっかくベ−シストとして目がでて来た時期に何故とも思ったが、お互いの知人の女性に後日聞いたところによるとノイロ−ゼっぽかったらしい。その知人の女性に死ぬ前日、自分が使っていたベ−スの弓を渡したそうだ。

32.最終章

香津美バンド解散後も、しばらくは生活の都合上、キャバレ−の箱の仕事を続けたが、じきにこれも見限った。それまで使っていた楽器たちも手放すことにした。しかし生活は続けなければならないので、たまたま週刊誌で読んだ記事に触発され、[ちょっと英語が喋れればこんなバイトが]というような記事だった、片っ端から都内のホテルに電話することにした。電話帳で最初の【あ】の項目、赤坂東急ホテルの人事部門に電話をした。「今、アルバイト募集してませんか?」と。するとすぐに面接に来なさい、ということで出向き、その場で準社員待遇でベル・ボ−イに採用された。学校での就職活動もしなければばらない。ホテルの仕事の合間を縫って、単位獲得の為の体育の授業と、就職部通いがはじまった。この最後の体育の実技はキツかった。当時全盛だった中大の駅伝の監督が担当である。毎週、陸上のグランドがある練馬まで出掛け、400メ−トルトラックを休みなしで90分走らされるのである。しかも間にウサギ跳び、腕立て伏せ走行が組いれられる。授業終了後は30分以上、うずくまって休息した後でないと立ち上がれない状態になるのだった。たまたま偶然にホテルのベルボ−イにもうひとりバイトの学生がいて、彼も中大の4年生だった。名前はMといったが、会津の奥只見の出身で訛りが強かったのだが、なかなか実直な青年であった。ホテルの仕事はロ−テ−ションやシフトでお互いに協力しあった。春先から始めたホテルの仕事も慣れるに従って、上司から深夜シフトに廻される日数が増えて来た。深夜シフトといっても、夕方4時半から始まり、翌朝の9時の業務引き継ぎまで長丁場である。(途中交代で2時間の仮眠休憩が与えられる。)下っ端の私たちはずっとフロント横に直立して、客を待つことになるのだが、班のキャプテンやサブ・キャプテンは夜中になると休憩室でトランプ博打にいそしむことになるのである。それでも東急ホテルではその当時、客からのチップは自分でポケットに入れて良いことになっていた。深夜シフトに着くと、なかなか、これが稼げるのである。しばらくすると、給料には手付けずで、このチップだけで生計が立てられるようになっていた。しかし、他のセクションに働いている正社員からの嫌み、虐めがキツイ。私たちが学生である事を知られたらそれはスゴかったので、Mと協力してこれを防いでいた。夏休み前頃、ある会社からやっと就職の内定通知が届いた。就職活動の方は全部で10社近く受けただろうが、大半は何年も浪人しているので、年齢制限にひっかかったり、ことごとく不採用となっていたのだ。

大学は夏休みの最中、ホテルの仕事は毎日続いていたが、自分がどんどん痩せていくのを自覚しだした。服がみなブカブカになってきた。最初は体育のマラソンが効いているのだろう位、安易に考えていた。ホテルの非番中も要請があれば、F社のバイトも続けていた。その他の時間はMと酒を飲んでいたので、ほとんど寝る時間もなくて、身体が弱っていたのかも知れない。2,3日ホテルの夏休みをもらえたので、F社の人たちと伊豆の海に出掛けた。その後、風邪の症状を起こし咳が続いたが何日たっても咳が治まらなかった。もう9月に入ろうとしていたある日、母親が風邪をひいたので病院へ連れていった。私も咳が治まらないので診察を受ける事にした。待合室で結果を待っていると、私が先に呼ばれた。「井口さん、病院を紹介しますので明日から入院していただきます。あなたは肺結核に感染しています」。その日、急きょ身づくろいを済ますと、翌日から小田急線の経堂駅にほど近い結核診療病院に入院することとなった。

結核病院での生活はあまりに惨めなので、ここには記さない。ひたすら本を読むしかなかった。後はベッドの下に隠した闇酒である。ホテルの仕事で少し貯めた金も使い果たしてきている矢先、同じ病院の闘病者に盗まれたりもした。しかし年も空けると大夫症状も良くなり、たまの外出許可も出るようになった。卒業試験の時期が到来した。中大は、この年も学生紛争がひどく、結局、自宅論文試験が実施されることとなった。(この前年もそうであった。)これは、私にはラッキ−で、病院の院長に事情を話し、10日間の外泊許可をもらった。家に帰ると、万年床を敷き詰め、その上に炬燵を置いて、その上には、参考書、回答用の原稿用紙、万年筆、そしてサントリ−ホワイトの瓶も設置された。そして7日間ほど、24時間体制の試験論文書きが始まった。眠くなればそのまま、寝る。その場から離れるのは、風呂とトイレの時だけである。側のカセットレコ−ダ−にジャズを入れて、時々ウイスキ−休憩が入る。かくして大学は何とか卒業できるメドがついた。肝心の体育の方は、Mが学校とかけあってくれ、事情を説明して、単位をくれる処置をしてもらう事が出来た。試験答案を郵送し終えると、そのまま病院には帰らなかった。2,3日外出許可の残りがあったので、そのままF社の人々、悪仲間のT,I,そして同じく試験が終わったMも同行して、無謀にも信越にスキ−におもむいたのである。 楽しい休日を過ごしいざ東京へ帰らんとするその朝、最後の滑りに出た。山の頂上付近、馬鹿な私は、奥只見育ちの強者Mに競争を挑んだ。急斜面を滑り出して1分も過ぎないうちに私のスキ−の先が雪面に突き刺さり、私は雪上に放り出された。激痛が走った。スキ−ブ−ツのバックルも跡形もなく吹っ飛んでいた。20分もそこにうづくまっていただろうか。誰も探しにも来ない。仕方なく一番下のリフト口までチンタラと滑り降りた。仲間は私のことなぞお構いなしに既にテラスで昼食を取っていた。帰りの電車の中、足が床に接触するたびに全身に激痛が走った。これはねん挫なんかではないと皆に告げると、「お前はオ−バ−なんだよ。足が折れてる奴が下まで滑って来られるわけないじゃないか。」と一喝された。上野駅に到着、山手線に乗り換えると、ひとり、ひとりと家路についていった。新宿駅では最後に残った、TもF社のHさんも去った。一歩歩くごとに激痛の走る足を引きずり、スキ−板と大きなリュックを携えた私はひとり、代々木上原駅へと乗り換えた。さて翌朝、私の右足は左足の倍に膨れ上がっていた。ケンケンをしながら隣駅、代々木八幡横の外科病院にようやくの思いでたどりついた。案の定、右足首の骨折であった。はいていたジ−ンズにバッサリとハサミが入れられ、足は哀れギブスでぐるぐる巻きにされ、松葉杖が手渡された。その日は経堂の病院へ戻らなければならない。松葉杖で病院へ帰った私は早速、院長室へ。家の階段から落ちましたと告げたが、顔は雪焼けで真っ黒になっていた。その2,3日後、内定先の会社から職場配置の面接があるので出頭せよという通知が来た。外出許可をもらい、タクシ−で出掛けたが、何せギブスが固まっていない。帰りに外科病院へ寄って、ギブスを巻き直してもらわなければならなかった。その翌日、日下部さんやら、一緒にスキ−へ行った人たちが見舞いにきた。成り行きで街に酒を飲みに出た。またギブスが壊れた。怒った外科の病院長はその場で私を外科病院に入院させ、以後3日間ベッドにヒモでくくりつけられた。前代未聞の二重入院となった。

3月30日、結核病院の院長室に呼ばれた。「もう菌は出てないので世間には大丈夫だが、まだ完治したわけではないし、大事をとってもう2,3ヶ月入院していなさい」というのである。私は渋谷の結核診療所に通院するという条件と引き換えに、強引に病院を退院した。荷物を家に運び終えるとその足で外科病院へ向かった。「明日から就職なので、ギブスを外してください。」「いや、まだあと、2,3週間は無理だよ。」「いやいいんです、外してください。」とリハビリを条件に無理矢理ギブスを外してもらった。右足は今度はビアフラの子供のように左足の半分の太さになっていた。かくして、翌日から晴れて(いや、曇りのまま)、いままでとは全然ちがうサラリ−マン生活へ突入したのでありました。

その後、会社には1年間、無遅刻、無欠勤、当初の2ヶ月間は松葉杖には支えられながらも、リハビリにこそ行かなかったが、週1回の結核病院も会社の始業時間前に済ませ、約1年後には会社に知られることなく結核も完治した。後はとっぷりとサラリ−マン生活に浸かっていくのみの人生となったのである。

  1999年8月14日。


最初のペ−ジ