東海道ウォーク

 三条大橋:長安寺、逢坂山関跡などを過ぎて進んで行き、山科地蔵徳林庵の付近からは、京都の名所が立ち並び、いよいよ三条大橋といった雰囲気を感じます。天智天皇陵、亀の水不動尊、南禅寺、明智光秀首塚と越え、最終目的地、三条大橋へ到着です。三条大橋:東山区と中京区の境の鴨川に架かる橋で、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が大改修したときの銘入り擬宝珠が残り木造欄干とともに威容を誇る。東海道五十三次の終点。高瀬川の船着場に隣接していたこともあり、旅籠・問屋・両替商等が立地し、更に明治になると金融・通信・運輸等の業種も集まり、三条通界隈は都心として発展した。やがて国鉄の開通・高瀬川水運の廃止等で都心機能は次第に失せていくが、古くからの町家のたたずまいと調和するように残る明治・大正期の近代建築に、往時の面影を見ることができる。(2016年9月11日)
 水口宿:東見付跡~水口宿本陣跡~問屋場跡~大岡寺~大徳寺~水口城跡~林口の一里塚跡の10km。本陣は規模が大きく一般の旅籠屋には許されない門、玄関、書院などがあって格式を示し、その経営には宿の有力者があたっていた。水口宿本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものだったが、明治二年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物も撤去された。問屋場は、宿駅本来の業務である人馬の継ぎ立てを差配したところで、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と、人足を用意していた。大徳寺と徳川家康の縁は深く、開山の栄誉住職が家康の重臣本多平八郎の伯父だった関係から、家康は上洛に際して水口に宿泊し、家康の家の字と松平の松の字をとって家松山の山号を賜り、また第二栄誉のとき大徳寺の寺号や香木、寺領等を寄進している。水口城は寛永11年(1634年)三代将軍家光の上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館として築かれた。(2015年4月6日)
 桑名宿:六華苑~大塚本陣跡~桑名宿脇本陣跡~七里の渡跡~桑名城址の10km。桑名宿は、長良川の河口部にあり南は伊勢湾に面しているため中世以来港湾都市として発展した。美濃の幕領からの年貢米を始め移出物資の多くは桑名湊から江戸へと送られた。六華苑は、二代目諸戸清六の邸宅として大正2年に竣工し、苑内は和館と池泉回遊式庭園などがある。大塚本陣は桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣で裏庭から直接乗船できた。明治時代から料理旅館「船津屋」として営業している。脇本陣は桑名宿に4軒あったが、そのうち最も格式の高いのが駿河屋で、現在は料理旅館「山月」の一部となっている。桑名宿と宮宿の間は江戸時代の東海道唯一の海路で七里の渡と呼ばれた。七里の渡の西側には舟番所、高札場、脇本陣駿河屋、大塚本陣が、南側には舟会所、人馬問屋や丹波本陣があり、東海道を行き交う人々で賑わい、桑名宿の中心として栄えた。桑名城は揖斐川を利用した水城で、城内から船で川に出ることができた。(2014年9月24日)
 岡崎宿:大平一里塚~岡崎二十七曲がり~岡崎宿西本陣跡~東惣門記念碑~岡崎城跡~西惣門跡~矢作神社の10km。江戸から数えての三十九番目の宿場である岡崎宿は、石高は五万石しかなくとも徳川幕府の下では神君生誕の三河国岡崎城の城下町を背景に宿場町の規模も駿河国府中宿(静岡県静岡市葵区)に次いで大きかった。大平一里塚の左側が当時のまま残っており、二代目の榎も見事に生長。右側の塚が有った場所には秋葉常夜灯と馬頭観音を祀った堂がある。天正18年(1590年)に岡崎城主となった田中吉政は、城下の整備に取り掛かった。東海道を城下町の中心を通るように変更したが、防衛上の理由から曲折の多い岡崎二十七曲がりを10年かかって造り上げた。岡崎城は、徳川家康の祖父にあたる松平清康が整備し、のちに天下統一を果たし江戸幕府を開いた徳川家康の生まれた城として知られ、今川義元の人質となっていた家康は、桶狭間の戦いで今川義元が敗死した際に独立を果たし岡崎城を本拠として行動する。(2016年10月24日)
 金谷宿:八軒屋橋~佐塚本陣跡~柏谷本陣跡~金谷一里塚跡跡~金谷坂~諏訪原城跡~牧ノ原茶園の10km。金谷宿は、大井川の京都側にあり牧之原台地が迫る狭隘な場所であるが、増水で大井川の川越が禁止されると江戸へ下る旅客が足止めされ島田宿と同様に江戸のような賑わいをみせた。大井川に架かった八軒屋橋を歩いて渡ると川会所、川越し人足の番宿、札場、高札場などが立ち並んでいた。本町には本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠51軒などの宿泊施設があった。新町に入り長光寺の門前を抜けると、金谷宿の西の入口である土橋に出て、その西側には石畳が敷かれた金谷坂が控えていた。途中右手には庚申堂があり、中腹まで登ると金谷の町が一望でき、さらに登ると富士山が見える。金谷坂を登りきると左手から菊川の鎌倉街道に繋がり、右手には諏訪原城の森が広がっていた。(2016年1月17日)
 三島宿:かぶと石~宗閉寺~山中城址~松雲寺~錦田一里塚~三島大社の10km。三島は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神の門前町として大変な賑わいを見せていました。旧東海道沿いの右手山中城三ノ丸跡に宗閑寺があり、入口には大きな山中城址記念之碑がある。山中城で死んだ秀吉方と小田原方の両方の死者を弔うために元和年間(1615~1624年)に創建された寺である。初音ヶ原の中ほどに日本橋より28番目の錦田一里塚がある。錦田は、この辺がかつて錦の郷と谷田郷であったのを合成して出来た地名である。三嶋大社は、源頼朝が旗揚げしたことで知られており境内には「源頼朝旗揚げの碑」がある。治承4年(1180年)、蛭ヶ小島に流されていた頼朝が戦勝祈願をして、伊豆を知行国としていた平時忠の目代八牧判官平兼隆の館に夜討をかけた、その記念碑である。境内には頼朝、政子の腰掛石、安達藤九郎盛永警護の跡碑がある。(2015年4月29日)
 箱根宿:畑宿一里塚~樫木坂~甘酒茶屋~旧街道石畳~旧街道杉並木~箱根関所~箱根峠の12km。道端に仲睦まじく頬を寄せ合う双立道祖神前を過ぎると湯本茶屋の集落に至る。集落に入るとすぐ右手に江戸から二十二里目の一里塚跡を示す石碑が立っている。東海道の難所、箱根山の中腹にある400年の伝統を持つ茶店「甘酒茶屋」は、箱根の関所を前にした休憩所として親しまれている。この周辺を見渡すと、道の両側に杉並木が並び立っている。道はやがて芦ノ湖畔沿いの道と合流する。杉並木を通り抜けると小高い丘が見え、箱根関所がある。(2015年4月29日)
 小田原宿:真楽寺~親木橋~法船寺~酒匂の渡し跡~北条稲荷~松原神社~清水本陣跡~徳常院~ういろう~小田原城址~報徳二宮神社~大久寺~古稀庵~松永記念館~板橋地蔵尊~紹太寺~三枚橋~早雲寺の20km。江戸を出発した旅人は、小田原で一泊し旅支度や体調を整えて箱根越えに挑みました。小田原は、戦国時代、5代100年に亘る関東の覇者北条市の城下町として大いに栄えました。また、江戸時代でも軍事上の要所として、大久保氏など徳川譜代による城下町として発展、賑わいを見せました。城下町は小田原藩と町奉行が、東海道は幕府道中奉行が各々所管して差配していました。北条三代氏康の子氏政は、氏康の死を古狐の祟りと考え、城内に北条稲荷を建てて守護神として崇めました。北条早雲に招かれた京都外郎家の五代目宇野藤右衛門定治は、八棟造りの建物を住居として大永3年(1523年)に建て、銀色小粒で胃腸や喉の痛みや船酔いに効く道中の常備薬「ういろう」を売りました。(2015年4月16日)
 大磯宿:延台寺~小嶋本陣跡~地福寺~照ケ崎海岸~鴨立庵~旧島崎藤村邸~滄浪閣跡~旧吉田茂邸~西長院~大矢場(馬場公園)~六所神社~塩海橋の10km。地福寺は、真言宗京都東寺末の古刹で家康が利用した「御茶屋」があった所と言われ、境内には島崎藤村の墓がある。ここを過ぎると東海道は大きく山側に折れ曲がり、街道を隔てた反対側に鴫立庵がある。台町を過ぎると松並木が両側を覆い、途中に島崎藤村が最晩年を過ごした旧宅や、滄浪閣(伊藤博文旧邸)がある。西小磯と国府本郷との境に城山と言われる城跡があり、丘陵一帯は城山公園となっている。城山の切通しを過ぎると東海道は大きく山側に折れ曲がる。この場所にある西長院には首切地蔵、化地蔵、身代地蔵といわれる地蔵があり、国府本郷に至る。西方には一里塚があり塚の上には各榎が植えられていた。国府新宿には、相模国の総社と唱える六所神社があり五月五日が例大祭で、この祭りを国府祭という。(2015年3月14日)
 平塚宿:南湖の左富士~旧相模川橋脚跡~馬入の渡しの碑~お菊の墓~江戸方見附跡~本陣跡~平塚の碑~松田たつの墓~上方見附跡~高来神社~大磯化粧板の11km。相模川に架かる馬入橋を渡ると平塚宿に入り、正面に高麗山が見え次第に目の前に追ってくるようになる。相模川は下流域を馬入川ともいう。建久九年(1198年)冬に橋供養があり、その橋供養の日に源頼朝の乗馬が、物に驚いて川に落ちたことから馬入の名が起こった。平塚宿の入り口は、現在の平塚市民センターの辺りであり、ここに立つ「平塚見附跡」碑から西組問屋場まで、脇本陣跡、高札場跡、本陣跡等の碑が建っている。桓武天皇の3代孫、高見王の娘政子が東国へ向かう旅をしていた折、天安元年(857)にこの地で逝去し、柩が埋葬され墓として塚が築かれた。その塚の上が平らだったので里人は「ひらつか」と呼んだ。これが平塚という地名の起こりとなった。(2015年2月14日)
 藤沢宿:江の島道道標~庚申堂~遊行寺(総門・いろは坂・本堂・敵味方供養塔・長生院)~桔梗屋~永勝寺~義経首洗い井戸~白旗神社~養命寺~四ツ谷不動堂の10km。藤沢宿は、清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄え、後北条時代は小田原城と支城の江戸城の桜田門、八王子城、玉縄城をつなぐ小田原街道の分岐点だった。清浄光寺の東側に江戸側の見附(江戸方見附)があり、現在の小田急江ノ島線を越えた西側あたりに京都側の見附(上方見附)があった。境川に架かる大鋸橋の京都側南東には江島神社の一の鳥居があり、ここから江の島道が1里の距離で江の島に通じていた。また八王子道(現・国道467号)の脇には源義経が祀られている白旗神社がある。 (2015年1月10日)
 戸塚宿:品濃坂~柏尾大山道~江戸方見附~吉田大橋~清源院~澤辺本陣跡~八坂神社~冨塚八幡宮の10km。保土ヶ谷から戸塚方面に向かうと再び国道一号とぶつかり、これに接しながら進んでいくと、不動坂の信号に至る。ここは東海道と柏尾通大山道の分岐点であり、小さな堂の中に大山道の道標が残されている。戸塚町・矢部町と共に戸塚宿を構成した吉田町の町並みが続いている。さらに進むと柏尾川に架かる長さ八間(約十四メートル)の大きな吉田大橋がある。ここは初代広重が、保永堂版『東海道五拾三次』の「戸塚宿」で描いた場所である。画中には「こめや」という茶屋の看板と「左りかまくら道」と記された道標が見える。この浮世絵に見られる道標と伝えられているものが、現在も近くの妙秀寺に保存されている。(2014年12月13日)
 保土ヶ谷宿:浅間神社~帷子橋跡~金沢横丁~苅部本陣跡~権太坂~投込塚の碑~境木地蔵~品濃一里塚の10km。新横浜通りを越えると芝生村に入る。ここには浅間下という信号の名称の由来となっている浅間神社がある。この社には「富士の人穴」と呼ばれる洞窟があり名所として知られていた。東海道、金沢道の分岐点となっている金沢横丁に4つの道標が立っている。苅部本陣跡には建物は残っていないが当時の門が残っている。美しい海岸線と分れて保土ヶ谷宿から戸塚宿へは、行き倒れも出るほどの厳しい難所「権太坂越え」が待っていました。相鉄天王町駅付近の帷子橋跡から、金沢八景への分岐点であった金沢横丁、苅部本陣などが残る保土ヶ谷宿内を経て権太坂を上り、立場で賑わった境木地蔵から品濃一里塚などを訪ね歩きました。(2015年12月12日)
 神奈川宿:長延寺跡~成仏寺~慶運寺~宗興寺~権現山~本覚寺~神奈川台関門跡~浅間神社の10km。神奈川宿は、浦島太郎、滝の川の河童などにまつわる伝説と、ペリーの黒船来航以降、横浜開港までの間、各国の領事館などが置かれた所です。オランダの領事館のあった長延寺跡を皮切りに 、浦島伝説の残る慶運寺、アメリカ領事館が置かれていた本覚寺、神奈川台関門跡などを歩きました。成仏寺は、旧アメリカ人宣教師の宿舎で、ヘボン式ローマ字で知られる宣教師ヘボンやフランシス・ホールらが滞在していた。成仏寺の東にある神奈川地区センターの前には高札場が再現され、館内に江戸時代の神奈川宿のジオラマが展示されている。宗興寺は、宣教師ヘボンが療養所を開いていた場所でした。 (2015年11月14日)
 川崎宿:六郷神社~六郷の渡し~万年屋跡~田中本陣跡~稲毛神社~坂本九の歌碑~芭蕉の句碑~市場の一里塚~鶴見川橋~鶴見神社~道念稲荷~生麦事件碑の11km。江戸を出て最初の大河が六郷川(多摩川)で、「六郷の渡し」と言われた処に新六郷橋が架けられ、川崎方の橋詰に川崎大師の燈籠があり、側に明治天皇渡御碑が建っている。京浜急行八丁畷駅前に、移された芭蕉の句碑がある。元禄七年(1694)五月、江戸の庵を発ち郷里・伊賀へ帰る俳聖芭蕉は、川崎宿で同道してきた門弟たちと別れる際、麦の穂をたよりにつかむ別れかな の句を詠んだ。日本橋から五里目にあたる市場の一里塚跡がある。鶴見川橋で鶴見川を渡ると、過っての鶴見村に入る。文久2年(1862)、島津久光の行列の前を、川崎大師へ行く途中のイギリス人商人リチャードソンら4名が馬に乗ったまま横切ろうとした所、薩摩藩士に斬りつけられ殺傷事件となった場所に生麦事件碑が建てられている。 (2015年10月15日)
 品川宿:八ツ山橋~土蔵相模跡~善福寺~養願寺~品川宿本陣跡~寄木神社~荏原神社~品川寺~鈴ヶ森刑場跡の9km。善福寺は、鎌倉末期に創建された時宗のお寺で伊豆の長八が描いた龍の鏝絵が本堂の壁に残っています。品川宿本陣跡は、明治まで続いた本陣があった所で明治天皇が東幸の際に行在所となり今は聖蹟公園になっています。寄木神社は、日本武尊・弟橘姫命の伝説に因む神社で、境内に江戸漁業根元之碑があり、本殿の両扉には伊豆長八による「鏝絵天鈿女命功績図」があります。荏原神社は、品川宿の鎮守で709年創建と伝えられている。現在の建物は1844年に再建されたもの。境内の狛犬は日本一美しい。品川寺は、空海が創建したとも言われる真言宗のお寺で、品川の観音様とも呼ばれ本尊は聖観音と水月観音で、江戸六地蔵の第一や洋行帰りの鐘も有名です。 (2015年9月17日、2017年1月7日)
 日本橋:常磐橋~金座跡~日本橋~京橋~銀座発祥之地~銀座の柳の碑~新橋停車場跡~芝大神宮~増上寺の5km。日本橋:五街道の起点、近くに魚河岸もあり大層な賑わいで江戸随一の名所でした。戦前の道路法では、各市町村に道路の始点となる道路元標の設置を義務付けており、その場所は概して市役所や県庁などとされていたが、首都たる東京市は江戸時代を踏襲して日本橋を道路元標としました。金座跡;江戸時代に小判などの金貨を鋳造した所で、今は日本銀行本館になっています。銀座跡:銀座は、堺の大黒常是に銀貨を鋳造させた所で、両替商が多く店を構えていました。近くに銀座の柳の碑もあります。新橋停車場跡:明治5年ここから横浜まで汽車が開通しました。当時の駅舎が再現され、遺構も見る事が出来ます。(2015年7月11日)


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