佐渡金山跡:新潟港から佐渡汽船・超高速船に乗り1時間で佐渡の両津港に着く。両津港から路線バス「佐渡金山」行に70分乗り下車。佐渡金山は、慶長6年(1601年)佐渡金山の山向こう鶴子(つるし)銀山の山師3人によって発見され、以来、江戸時代を通じて徳川幕府の財政を支えた。明治に入ると、国内主要鉱山として一早く官営化・近代化され、我が国の模範鉱山となった。明治29年(1896年)三菱合資会社に払い下げられた。金鉱脈は、東西3,000m、南北600m、深さ800mの範囲に分布し、坑道の全長は400kmに達する。平成元年(1989年)の操業停止に至るまで、388年間に生産された金は78トン、銀は2,330トンに上り、日本最大級の産出量を誇る金銀山である。佐渡鉱山において我が国で初めて実用化された技術には、火薬による採掘、削岩機、空中ケーブル、アセチレン灯などがあり、産業遺跡としても興味深い。宗太夫坑(そうだゆうこう)は、江戸時代初期から開発された富鉱の一つ「青盤脈」の採掘跡。江戸期の旧坑でみられる諸条件を備えており、斜坑は海面下に達している。国指定の史跡となっている。慶長6年(1601年)の佐渡金山開山に伴い、相川は幕府直轄の天領となり、慶長8年(1603年)に佐渡奉行所が建てられた。その後何度か焼失したが、安政5年(1858年)頃に建てられた奉行所を基に復原されている。佐渡奉行所には、一般の奉行所と異なり、役所と役宅と工場がある。(2020年6月7日)

 石見銀山跡:JR山陰本線大田市駅から石見交通バスに乗り25分、「大森代官所跡」バス停で下車し徒歩2分。大森代官所跡の石見銀山資料館を見学し、大森の街道を散策する。
 銀山公園から街道を歩いて龍源寺間歩へ行き、坑道を抜けて、最後に清水谷製錬所跡を見る、龍源寺間歩は公開されている坑道の1つ。古い坑道を見学用に安全上の整備をしただけで見学コースとしては極めて地味である。石見銀山を本格的に開発したのは博多の商人・神谷寿貞であるとされている。海上から山が光るのを見た神谷は領主大内義興の支援と出雲国田儀村の銅山主・三島清右衛門の協力を得て大永6年(1526年)、銀峯山(仙ノ山)の中腹で地下の銀を掘り出した。義興の死後、享禄3年(1530年)に、地方領主・小笠原長隆が大内義隆から銀山を奪い、3年後に大内氏が奪回した。大内氏は山吹城を構えて銀山守護の拠点とした。天文2年(1533年)、神谷寿貞は博多から宗丹と桂寿を招き海外渡来の銀精錬技術である灰吹法に日本で初めて成功し効率的に銀を得られるようになり、全国の鉱山に伝えられ日本における銀産出に大きな貢献をすることになる。天文6年(1537年)、出雲の尼子経久が石見に侵攻、銀山を奪った。2年後に大内氏が奪還したものの、その2年後に尼子氏が石見小笠原氏を使って再び銀山を占領、大内氏と尼子氏による争奪戦が続いた。大内義隆の死後は、毛利元就が尼子氏との間で銀山争奪戦を繰り広げ、最終的に毛利氏が勝利を収めて石見銀山を完全に手中に収めた。そして、山吹城には吉川元春の家臣・森脇市郎左衛門が置かれた。同年12月には石見銀山を朝廷の御料所として献呈する。その後、天正12年(1584年)に毛利氏が豊臣秀吉に服属することになると、銀山は豊臣秀吉の上使である近実若狭守と毛利氏の代官である三井善兵衛の共同管理となり、秀吉の朝鮮出兵の軍資金にも充てられた。天正19年( 1591年)、毛利輝元は豊臣秀吉の命により石見銀山を始めとする領国の銀山を治めるため林就長と柳沢元政を奉行に任命した。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は慶長5年(1600年)に石見銀山を幕府直轄領(天領)とし、翌慶長6年(1601年)に初代銀山奉行として大久保長安を任命した。大久保長安は山吹城の下屋敷のあった吉迫の陣屋で支配を行ったが、後任の竹村丹後守により大森に奉行所が置かれた。17世紀初頭(慶長年間から寛永年間)に銀の産出はピークに達したが、その後、銀産出量は次第に減少し、延宝3年(1675年)に大森奉行所は大森代官所に格下げされた。 (2017年8月7日)

 足尾銅山跡:東武伊勢崎線相老で「わたらせ渓谷鉄道」に乗換え一日フリー切符を使って1時間20分乗車し通洞駅で途中下車して、足尾銅山観光を見学した。足尾銅山は慶長15年(1610年)に発見され、芝上野の徳川廟の築造や江戸城の増築の時に屋根瓦に使用された。元禄10年(1697年)の我国の銅の生産高は世界一で、長崎貿易の輸出高の半分は銅であったという。近世後期から不振をかこっていた足尾銅山が古河市兵衛の手に渡ったのは明治9年である。明治14年に新たに豊富な鉱脈が発見され、産銅量は急速に増加し、明治18年の産銅量は全国の39%を占めるに至った。
足尾銅山観光を見学した後、通洞駅から「わたらせ渓谷鉄道」に6分乗り終点の間藤駅で下車。間藤から徒歩25分で旧精錬所のある赤倉へ。明治23年には間藤に我国最古の鉱業用水力発電所が設置された。鉱山経営が順調に発展するなかで、公害の原点といわれる足尾鉱毒事件が発生した。坑木や燃料として周辺の山林を乱伐したことと、硫酸を含んだ煤煙とによって周辺の森林は大きな被害を受けた。丸裸になって保水力を失った山では洪水が頻繁に起こるようになった。洪水のたびに渡良瀬川では、鉱毒のため魚が死ん漁業ができなくなった。鉱毒の影響が下流農民に現れ始めたのは、明治18年頃からであるが、明治29年の渡良瀬川の大洪水によって鉱毒問題は一挙に拡大していった。明治34年に田中正造の天皇直訴事件となる。 輝かしい歴史の足尾銅山は昭和48年に閉山となった。明治10年から足尾銅山を経営した古河市兵衛は、今までの薪・木炭に代る動力源として、ドイツのジーメンス社の勧めにより、初めて水力発電所を明治23年12月に完成させた。 この間藤水力発電所は日本初期のもので、松木川上流(現在の足尾ダム下)から取水し、落差32mの水力によりトルビン横水車を回転させた。400馬力(約300KW)の電力は、揚水機、巻揚機、坑内電車、電灯などに利用され、銅山近代化を進める力となった。
赤倉で旧精錬所を見てから更に徒歩25分で足尾砂防ダムの下にある銅(あかがね)親水公園へ。公園には、足尾環境学習センターがあり、足尾銅山の歴史や砂防事業などについて学ぶことができる。(2019年8月18日)


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