鈴の音(すずのね)

 久しぶりに山道を散歩してみるかと思ったのがそもそもの間違いだった。中学生の頃に歩き慣れたはずの山道は、今となっては思いのほか険しく、幾重にも交差していて、俺はいつの間にか道に迷っていた。しかも、俺のあせる気持ちをよそに太陽は西の彼方へ沈み、一瞬にしてあたりは闇に包まれてしまった。

「ああ、まいったなぁ…」

 途方に暮れた俺は、ひとまず心を落ち着けるために手近な岩に腰をおろした。そして、背負っていたリュックを下ろし、中から手探りで水筒を取りだして冷たいお茶を一口飲んだ。

「さて、これからどうしようか」

 夜空をじっと眺めていると、やがて雲間から明るい月が現れた。ふと見回すと、月明かりのせいか、暗闇に目が慣れたせいか、何とかあたりの様子が見える。これなら、道を探せるかも知れない。
 俺は再びリュックを背負い、ゆっくりと立ち上がった。−−と、その時!! 向こうの木々の間を何か白いものがチラッと動くのが見えた。幻か? いや、確かに見た。誰かいるのか!?

 俺は、ちょっとドキドキしながらも、動いたものの正体が知りたくて、その木の方に近づいた。

 チリーン…

 唐突に鈴の音がした。
 俺の足が止まる。何だよ、この音は。

 チリーン、チリーン

 止まった足が少し震えた。な…なんだよ、たかが鈴の音じゃないか。こんな音、全然怖くないさ。

 チリリーン

 大丈夫だと自分に言いきかせながらも、俺は体が震えるのをとめられない。そうこうしている内に、鈴の音はだんだん俺に近づいて来た。

 チリーン、チリーン、チリーン…

 おいおい、冗談じゃないぞ。何で鈴の音が近づいてくるんだ。一体、この鈴の音は何なんだ!?
 俺の体は凍りついたように動けなくなった。

 チリーーン

 木々の間をする抜けるように、その白いものは現れた。ぞっとするような青白い表情を隠すかのように長く垂れた黒髪、白い着物、そして、その細い手には鈴……。

 チリリーン

 その瞬間、俺の体が金縛りから開放された。

「でっ、出たぁー! 幽霊だー!!」

 大声で叫ぶや否や、俺は自分の体に触れそうにまで迫ったそいつに背を向け、一目散に逃げ出した。心臓は口から飛び出しそうなほど、激しく動悸し、全身は冷たい汗でぐっしょりだ。とにかく、一刻も早くこいつから逃げなければ…。

 しかし、逃げる俺を鈴の音は追いはじめた。

 チリン、チリン、チリン

 なんで追いかけてくるんだよ。俺が何をしたってんだ。もうかんべんしてくれよ!!

 チリン、チリン、チリン

 俺は懸命に走るのだが、鈴の音を引き離すことはできない。幽霊あいてに競争したって無駄ってことかよ、まったく。

 チリン、チリン、チリン

 だけど、追いつかれてあの青白い顔をもう一度見ることはなんとしても避けたい。あんな恐ろしい顔は、いまだかつて見たことがなかった。もう二度とごめんだ!!
 俺は、死にものぐるいでスピードを上げた。それなのに、相手はぴったりくっついてくる。

 チリ、チリ、チリ、チリ

 次の瞬間、俺は石ころにつまずいて、前向きに吹っ飛び、一回転して地面に叩きつけられた。当然、リュックも吹っ飛んだ。

 チリーーン!!

 俺は覚悟を決めて、目を閉じた。もう、おしまいだ。どうして俺がこんな目にあわなきゃならないんだ……。

 沈黙が流れた。

 目を閉じている俺には、何も起こらないし、鈴の音さえしない。一体、どうなってるんだ!?

 俺がゆっくり目を開けたとき、そこにリュックがあった。そして、リュックに結びつけられて月明かりに光っている小さなもの、それは紛れもなく、鈴……。


(C) Tadashi_Takezaki 2003