心の夕闇 (第1章)

高橋由利子は怒っていた。暗い夜道をひとりでせかせかと歩きながら怒っていた。

ここ数日、上司にあたる佐々木課長に毎日食事につきあわされ、彼の会社に対する愚痴をさんざん聞かされたあげく、今夜などは「君の意見ということで、部長にこう言ってもらえないだろうか」なんて切り出されたのである。つまり、佐々木は自分の不満を由利子を使って上申しようとしているわけだ。というのも、佐々木は部長のやり方に不満がいっぱいで、しかしながら自分で部長に反発することを恐がっているわけである。
「キミみたいなOLが部長に意見したところで地位がどうなるわけでもないが、課長の私が部長の機嫌を損ねたら大変なことになりかねないからね」「キミなら部長に気に入られてるようだし、なんとか頼むよ。ここの食事代は出しておくからさ」なんて調子でやられて、由利子の怒りは頂点に達した。
「毎日毎日、私を食事に連れ出して、愚痴ばっかり言ったあげくにそれですか。私を何だと思ってるんです。いいかげんにしてください!」
耐えきれなくなった由利子がそう言ったとき、佐々木は怪訝そうな顔をした。

だいたい、由利子が佐々木につきあってやっていたのは、佐々木が尊敬できる上司であるからでも魅力のある男性であるからでもなく、ただ単に佐々木の誘いを断りきれなかっただけなのである。由利子は部内でもつきあいがいいことで知られており、何かあるたびに相談を持ちかけられてしまう。しかし、由利子がつきあいがいいのは、実は断ることが苦手だからであって、それは決して彼女の望んでいることではなかった。それどころか、会社におけるいろいろな悩みや愚痴を聞かされても、それを解決できる立場に自分がいるわけでもなく、嫌な気分になるだけなのだ。それでも由利子はいつも黙って我慢してきた。それなのに、上司までがそんな自分に甘えようとしているのだからたまらない。

そんな由利子の気持ちに理解を示すわけでもなく、佐々木が吐いた言葉は強烈だった。
「オマエ、みんなの相談役みたいにいい顔して、オレのために部長にひとこと言うことすらできないのか。ケチな奴だな」
由利子は黙って席を立ち、涙がこぼれる前に店を飛び出していた。

店を出てからずいぶん歩いた。ふだんならこんな人通りのない夜道を歩くのは避けるはずだが、今日は人通りのない方が気が楽だった。怒りがこみ上げては目に涙がにじんだ。
いくら歩いていても、一向に怒りはおさまらない。それどころか、いろいろ考えているうちに、由利子は自分自身に対しても腹が立ってきていた。だいたい、あんな課長の愚痴に毎晩つきあっている自分にも問題はあるのだ。佐々木の誘いなんか断ればいい。断ったってどうってことはないのだ。それなのに、断るのが面倒で毎日つきあったあげく、あんなことを言われては馬鹿みたいだ。

「私って、どうしてこうなんだろう」
口に出してみても、ムシャクシャする気持ちは晴れない。
「ほんとに、もう!」
そういって一歩踏み出したところに空き缶が落ちていた。由利子はつまずいてバランスを崩し、勢い良く倒れこんだ。
「痛っ!」 ストッキングに電線が走り、お気に入りの薄紫色のスカートも汚れてしまった。しかも、ひねった足首がひどく痛い。
「最低っ!!」
由利子は目の前に落ちている空き缶を拾い、怒りを込めて思い切り投げた。カコンッ。電柱に命中した空き缶は、見事にはねかえってきて、由利子に命中した。
「馬鹿みたい…」
泣きそうになりながら、ハンドバッグを拾いあげたとき、携帯電話のベルが鳴り始めた。
由利子は慌ててバッグから電話を取り出した。
「はい。高橋です」
「アユミ。俺だよ。どこに逃げた?」
「もしもし、どなたにおかけですか?」
「ふざけんな、アユミ。わかってんだよ、俺には」
「ちょっと待ってください。私はアユミじゃありません。高橋です」
「ふざけんなって言ってるだろ! 生きて逃げ切れると思うなよ!!」
相手は怒鳴り声になった。なんて奴だ。こっちの方が怒鳴りたいわよ。
「番号をお間違えのようですわ!! いいかげんにして、この馬鹿!」
由利子はそれだけ言って、電話を切った。
こんなに最低の日があるだろうか。由利子は電話をハンドバッグにしまい、痛めた左足をひきずりながら、とぼとぼと歩きはじめた。

すると、また携帯電話のベルが鳴った。
「もしもし」
「なんで電話を切るんだよ」
またさっきの男だ。今度は妙に押し殺したような声である。
「だから、私はアユミではありません。あなたは電話番号をまちがってかけているのよ」
「そうか。そして、オマエは、たかはし、なんだな」
「わかったのなら、もういいでしょ。電話、切るわよ」
そのとき、下手な口笛を吹きながら歩く中年の酔っぱらいが由利子の横を通り過ぎた。
「今の口笛……。そうか」
「なによ。いいかげんにして!」
由利子は電話を切った。
しかし、間髪を入れず、ベルが鳴る。
「もう、いいかげんにしてよ! 間違いだって言ってるでしょ」
「オマエ、左足が痛いようだな」
馬鹿にしたような調子で相手が言った。由利子はギョッとしてあたりを見回した。誰も見当たらない。さっきの酔っぱらいの姿さえもうない。
「かわいい紫の服も汚れてるじゃねえか。どうしたんだよ」
「あなたは誰?」
「さあな。アユミに逃げられてイライラしていたんだ。ちょうど良かった。代わりにオマエを可愛がってやるぜ。その足じゃあ、逃げられそうもないな、待ってろよ」
由利子の背筋を戦慄が走った。あたりの闇が急に深くなった。

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(C) Tadashi_Takezaki 2003