琉球の城
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琉球では14世紀ごろに、北山、中山、南山と三つの勢力が対立した三山時代に島内にたくさんの城(グスク)が築城されました。その後、覇権を握ったのは中山の尚把志(しょうはし)王で、百里城を拠点に琉球国の礎を築きます。
明国との冊封体制(明国から琉球王として認めてもらう)により、明国との交易が活発に行われ、正使を迎え入れる儀式が百里城の御殿で行われました。
1609年、薩摩藩の侵略により薩摩の植民地時代を迎え、琉球では日本文化の影響を受けた独自の文化が栄えます。明治12年に明治政府は軍隊を琉球に送り、首里城の明け渡しを迫ります。これに屈した琉球王が城を出て、琉球国は滅び沖縄県が誕生しました。
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今帰仁城 |
所 在:沖縄県 国頭郡 今帰仁村
地図[MapFanWeb] 交 通:名護市から車で1時間弱 種 別:?平山城 三山時代の北山の本城で、沖縄では百里城の次に大きな規模を誇ります。正確な築城年数は不明ですが、三山時代以前から城はあったようです。 中山の尚把志がいたころ北山には、樊安知(はんあんち)という武勇の誉れ高い武将が、今帰仁城主でした。 尚把志は今帰仁城を攻めますが、城は難攻不落、兵も強く城を落とすことができないので計略に切り替え、樊安知の家臣を内応させることで今帰仁城を落城させ、樊安知は自害し北山の最後となります。 城址の大手門は平郎門といわれる門で、城壁をアーチ型(拱門というらしい)にくり抜いた本土では見られない大陸系の様式を持っています。この門をくぐると、本丸へは長い石段で結ばれています。本丸には、御殿の礎石や、神社、石碑などがありました。 上写真は平郎門付近から撮った城壁で、積まれている石は地層の違いからか、島南で使われている石灰岩系ではなく、本土に近い石質のようです。 >くわしいことは分からない(^O^) 下写真は本丸から下に、本丸をくるりと囲んでいる城壁の一部を撮ったものです。 ところどころ石垣の修復工事中でしたが、なかなか規模の大きな城壁で、ミニ万里の長城といったフンイキでしょうか? |
座喜味城 |
所 在:沖縄県 中頭郡 読谷村
地図[MapFanWeb] 交 通:那覇から車で2時間弱 種 別:?平山城 琉球史上一の建築家といわれる護佐丸の1416年の築城です。 護佐丸は尚把志の北山攻めに同行し、今帰仁城落城後は今帰仁城で戦後処理を行い、その後に、この城を築城したといわれています。 1440年に中城城に移るまでの間、護佐丸の居城でした。その後も詰め城として使用されたようですが詳細は不明です。 城は一の郭と二の郭に別れた梯郭式で、すべて城壁に囲まれています。 城壁は今帰仁城とは異なり、石灰岩系の石を丁寧に積んだものです。 1416年といえば本土ではまだ土塁がせいぜいなのに、これほど完成度の高い石垣を組むなんて驚きです。(石灰岩は加工がしやすいのかな?) 上写真は唯一外部と出入りできる二の郭の拱門(アーチ門)付近を、城壁に登って上から撮ったものです。 下写真は一の郭の館跡の礎石です。 この付近では、陶器や中国古銭が出土されていますが、瓦は出土されていないことから、館の屋根は茅葺きか板葺きと推定されています。 |
中城城 |
所 在:沖縄県 中頭郡 北中城村
地図[MapFanWeb] 交 通:那覇から車で30分ぐらい 種 別:? 平山城 中城城(ナカグスクジョウ)は、護佐丸が1440年に、古くからあった古城を大改築して、座喜味から移りました。 この城があまりにも大規模な城であったため、ひそかに百里城をねらう勝連城の阿麻和利が、護佐丸謀反の報を尚泰久(尚氏六代の王)に密告しました。 護佐丸は、護佐丸討伐の命をうけた阿麻和利に、滅ぼされてしまいます。 城は、一、二、三の郭と続く連郭式の大規模な城です。郭内には芝生がきれいに敷かれているところと、くずれた石がゴロゴロしているところがあります。 写真は大手門とされている拱門(アーチ門)です。 |
勝連城 |
所 在:沖縄県 中頭郡 勝連町
地図[MapFanWeb] 交 通:那覇から車で2時間弱 種 別:? 平山城 築城の詳細は不明ですが、一平民であった阿麻和利が勝連城主となり、その後は、尚泰久(尚氏六代の王)の王女をめとり勢力をのばし、1456年護佐丸との対決にも勝利しますが、まもなくこの王女に謀反の報を尚泰久に密告され、阿麻和利は城を追われることになります。 護佐丸におこなった手口で自分の身を滅ぼす結果となったわけです。 城は、一〜四の郭で階段状に構成されており、写真は二の郭から撮った一の郭の城壁です。山の頂にそびえる石垣を見ると、西洋の城を彷彿とさせるフンイキの良い城です。 |