何もなかったけど・・・みんな夢があった
SMILE 〜晴れ渡る空のように〜
長きこの地球の 歴史の一幕に 立ち会う事を 奇跡と呼ぶのだろう
永遠(とわ)に星は流れ 瞬くその間に 人類(ひと)が織りなす
夢と希望の舞台
私とあなたが 逢うところ ここから未来を 始めよう
栄光に満ちた 孤独なHERO 夢追う人達の歌
情熱を消さないで 歩みを止めないで この世に生まれた以上
愛情に満ちた神の魔法も 悪戯(いたずら)な運命(さだめ)にも 心折れないで
でなきゃ勝利はないじゃん 素晴らしき哉 Your Smile 街のざわめきが 歓喜の叫びへと変わる 時代(とき)がまたひとつ 動いた事を知る 命の限りに 幸せに 敬いし友と 闘え 栄光に満ちた者の陰で 夢追う人達がいる
いつも側にいて 共にゴ−ルを目指して その命燃やしてるんだ 世の中は今日この瞬間(とき)も 悲しみの声がする
次の世代に 何を渡そうか ! ? 今この時代(とき)を生きて Wow wow ・・・ 栄光に満ちた孤独なHERO 夢追う人達の歌 情熱を消さないで 一人背負わないで 晴れ渡る空のように
愛情に満ちた神の魔法も 気まぐれな運命(さだめ)にも 心折れないで でなきゃモテないじゃん!! 素晴らしき哉 Your Smile
あなたがいて IVm So Proud 愛しい友への歌 − 桑田佳佑 − エヒメアヤメが自生する南限地として国の天然記念物に指定されている防府市西浦地区の自生地で6日、一般公開が始まった。今 が見頃で多くの人が訪れ、青紫色で直径4センチほどの愛らしい花を楽しんでいる。一般公開は15日まで。地元の人たちでつくる「 西浦えひめあやめ保存会」と市文化振興課によると、市が管理する自生地の斜面約5600平方メ−トルに約1700株が自生している。 エヒメアヤメは中国や朝鮮半島を中心に分布する小型のアヤメで明治時代に愛媛県で見つかったことからその名前がつけられた。 本名を誰故草(タレユソウ)、地方によっはヒメアヤメ、イッスンショウブなどの呼び名があるようだ。防府市の西浦地区の自生地は、 1925年にエヒメアヤメ自生南限地帯として国の天然記念物に指定され花が咲くこの時期だけ一般に公開されている。 防府市の西浦地区 我が家から30分程度で行けるところにもエヒメアヤメの群生地があります。昭和5年、響灘に面する本州西端、豊浦町小串の低山の ふもと3カ所を自生地として指定したが、戦後の混乱期に管理がされず、生息環境が悪化し絶滅したため、平成3年に追加指定した 一カ所だけが指定地として残っている。指定地は低山の西向きの斜面で、面積748.8u、適度に乾燥している。丈夫な柵で囲み、 草刈りを行うなどして保護増殖に努めており、四月上旬に1000株以上のエヒメアヤメが青紫色のかれんな花を咲かせる。 下関市豊浦町小串 県内有数の米どころ、山口市阿東地域で田植えが始まった。阿東地福下の水田では12日、中山ファ−ム(中山隆之社長)の従 業員らがコシヒカリの苗を植える作業に追われた。中山ファ−ムはスマ−ト農業を取り入れ、大型機械を使って約75haの田でコシヒ カリを中心にもち米や飼料用米などを栽培。この日は大型の田植え機を使って作業を行った。水を張って湖のように見えていた水 田は、田植え機が通過すると早苗の緑色に染まっていった。コシヒカリの苗植えは5月末まで続き、順調に成長すれば8月終わりご ろ新米が収穫できる見通し。コシヒカリの後、加工用米、もち米、飼料米の順で田植えを進めるという。コシヒカリの新米は8月下旬 に阿東生雲東分の「米の駅あとう直売センタ−」で販売する。 5月のゴ−ルデンウイ−クまであと少しです。青空に鯉のぼりが泳いでいます。新緑の初夏は列島が一年のうちで、最も生き生きとし て美しい季節です。日本の夏は三つの季節を含んでいます。むせ返るばかりの若葉が山野に満ち、鯉のぼりが泳ぐ五月から、来る 日も来る日も曇天が続き、雨に濡れて紫陽花のひっそりと咲く梅雨を経て、炎暑が列島をおおいつくす七月へ ・・・・・・ この豊かな 季節は自然をたたえ涼を求める懐かしい風物詩に彩られます。桜が散り惜しまれつつ春が行くとき、新しい季節の夏がすでに始まっ ているのです。五月の青空にひるがえる鯉のぼりの由来は、水中の魚を大空に泳がせるという、江戸の庶民の奇想天外な発想であ った。鯉のぼりはやはり初夏の薫風がふさわしい。春風でも秋風でもふさわしくない。皐幟(さつきのぼり)とも言う。五月の風をはらん で魚体をうねらせ、形なき風を捕らえて大空の画布に風の姿を描く。 本州最西端の地として知られる下関市吉母の毘沙ノ鼻にこいのぼりがお目見えした。色とりどりのこいのぼり24匹とミニこいのぼり約50匹が響灘から吹き抜ける風に乗ってたなびき、早速、記念写真を撮る市民や観光客がいた。吉見地区まちづくり協議会吉母部会が「こどもの日」(5月5日)を前に設置。地元住民10人が近くの山から約10bの竹6本を切り出し、節を一つ一つ削って整えた後、毘沙ノ鼻公園駐車場横の広場に立てて、こいのぼりとのぼり旗を掲げた。いずれも「子どもが成長して出番がなくなった」と市内の家庭から寄付されたこいのぼりで、最も大きい真ゴイが全長8b。毘沙ノ鼻は海風が強く、豪快に空を泳ぐ姿は迫力満点だが、風にさらされて毎年傷みも激しいという。修理をしながら大事に使っており、同部会では家庭などで不用になったこいのぼりの提供を呼びかけている。
こいのぼりの設置は今年で8年目。清田幸男部会長(78)は「海が眼下に見えるこいのぼりはあまりない。毎年楽しみに来られる方も多く、既に問い合わせも入っている。子どもを連れてぜひ見に来てほしい」。5月中旬まで掲げる予定だ。 この琵沙ノ鼻から響灘に浮かぶ蓋井島を望むことができる。蓋井島の周囲は海食崖をめぐらし、南岸の小湾頭にわずかに砂浜海岸 があり、ここに84人の半農半漁が立地する 。晴天快晴時にはこの 琵沙ノ鼻より 「蓋井島」 の右端の海上に、沖島(沖ノ島とも)がか すかに眺められる。「沖ノ島」 は周囲4Km、玄武岩からなる山島で、切り立った断崖が海に臨んでいる。古来大陸航路の要衝であっ た。無人島で、神官だけが駐在し、「海の正倉院」 といわれる。 四季折々にこまやかな情趣を醸し出す日本の自然の中で、秋の山野に最も美観を添える紅葉と春の新緑は甲乙つけがたい美の 極致だろう。カエデの新緑は萌黄美の代表であり、この美しさは筆舌に尽くしがたい。萌黄とは、草木の若い芽が萌えいずるような、 わずかに青みがかった黄緑のこと。早春を感じさせる清々しい伝統色名。平安時代から用いられてきた。新緑の初夏は日本列島が 一年のうち最も生き生きとして美しい季節である。若葉はまだ薄く葉脈が透いてみえる。徐々に淡い緑が濃くなっていく。山桜のよう にわずかに赤茶色を帯びた葉もある。新緑の色彩の配色美はこの時季なればこその妙趣か。緑色は今の季節がいちばん美しく輝く 。光合成に際して緑だけは吸収されずに反射する。新緑美のゆえんである。徳富蘇峰に、新緑の季節を紅葉と対比させた名随想 「緑陰幽草」 がある。二つを日本の代表的な美としながら、美の本質の違いを述べたものである。新緑は大なる未来を予測し、紅葉 は大いなる過去を感知する。新緑は勢いよく沸き起こる生気がみえるのに対し、紅葉は老熟が深々としたようすだとする。そのうえで 、共に反映の妙観ありと。 新緑と紅葉を目指した山であったが、進行する地球温暖化の波はいかんともしがたく、海に近い当地の紅葉は期待できない。 若いころから、桜とモミジの二刀流を目指してきたが、桜に絞ることにした。今年の暮れもこの新緑の樹海を伐採することになって おり、そのあとに桜を植えることになっている。 桜が終わった桜山でアザミが咲いています。アザミは何の変哲もない見過ごしてしまいそうな花だが、なぜか紫が印象深い花。紫は 清楚で高貴な色。葉には深い切れ込みがあり、トゲがあるから触ると痛い。花のにおいはトゲのある花には似つかない芳香を放つ。 アザミの中に同じ紫色?むしろライトブル−に近い花が咲いています。アザミが孤独な一本なのに対し、これは夥しい数で群生して います。同じブル−系のネモフィラの群生地を見るようですが名前はわかりません。これら野に咲く野草は、園芸家や農家の人から は草刈機や除草剤の標的され、目の敵にされる厄介者。それでも天寿を全うしようと懸命に咲き続ける姿に感動を覚えるのだ。道行 く人々を和ませてくれることは間違いない。 ネモフィラ 芽吹きの季節も過ぎ、本格的に春が訪れると、野山の雑木林をはじめ里の庭、公園などで色鮮やかに咲くツツジ。眩しいまでに輝 き、あたり一面を錦に飾るその花色には、ほかの春の花とはまた違った華やかさがある。ツツジは古くから日本中に自生し、我々 には馴染み深い春花のひとつである。ツツジの漢字は 「躑躅」。音読みなら 「てきちょく」 と読む。少し歩いては止まるという意味 だ。見る人の足を引き留めるほど艶めいているということか。ツツジヶ丘のツツジも大きくなりました。間隔をとって植えていたが、 葉同士が重なり合っている。拙者は剪定するのを好まず、自然のままにしていた。ツツジは重なり合うのを嫌う傾向があるらしい。 忙しくて移植する時間がとれないのが悩みである。夏の間、つる性の植物が伸びてきてツツジに覆いかぶさる。日射を妨げ、花 芽の形成の支障になる。夏の間、これを取るのは難しい。ツツジヶ込み合って中に入るのも至難の技。無理に入れば、殺人ダニ 「マダニ」 の餌食になる。地面に這いつくばれば、毒ヘビのマムシの危険があり、手入れは冬の1、2月になる。 22日から23日にわたっての強風と雨で八重桜のほとんどは散りました。直立性というか円柱状にのびる天の川だけはまだ花が残っ ていました。垂直に伸びる小枝と淡いピンク色の花が織りなす開花期の様子を 「天の川」に見立てて名付けられた。我が桜山には 4本あり、町道に近いところに植えてある。 伐採した山の桜の木が大きくなって茂っています。まる四年経つと桜の苗も大きくなっています。裏のため池側は三年になります。 冬の間、広々とした空間だったのが、桜の葉が茂って狭く感じます。十年経つとどんな感じになるか、思い浮かべることがあります。 種を植えて数ヶ月すれば花が咲く園芸、秋に種をまき翌年に収穫する麦、立夏に田植えして秋に収穫する稲作などと違って、桜 山のようなものは気の遠くなるような年月がかかります。桜の苗を植えて20年、30年経ってやっとそれなりの景観を有するようになる のです。その間、管理、手入れが不可欠で植えてしまえば終了ということにはなりません。桜山などは収入になることではありません から、植えるだけで終わってしまうことが多い。収入になるものでも、開墾とか植林とかいうものは直ちに現金収入に結びつくもので はない。先祖から受け継ぎ子孫へ伝えてゆく地道な営みが不可欠だ。四季のめぐりに望みをもって大地に根をおろす土着の魂を 失えば、たちまち荒廃してしまう。不動の信念、崇高な哲学に立脚したものでなければ、永続性なく瓦解してしまうだろう。 「春に三日の晴れなし」といわれますが、一向に雨の気配はありません。3月頃の長雨を「菜種梅雨」と言いますが、4月下旬頃は「 たけのこ梅雨」と言っていいでしょう。春の晴天は三日と続かず、天気変化が早いのが特徴です。それは春は日本列島の上空を 流れている偏西風が強いため、高気圧や低気圧の移動速度が速く、高気圧に何日も覆われることはあまりないからです。 ため池側 この時期、気ままな春の天気が安定し、雨がわずかながら多くなるのが通説です。その雨も強い雨ではない。万物の身に親の愛情の ように染み入る慈雨のようである。二十四節気の穀雨は穀物の成長を促す雨。草木や花なども命の芽吹きを感じるときである。二十 四節気の春は立春に始まり、この穀雨で終える。穀雨が終わる立夏の直前に、茶摘みの八十八夜を迎え、ゴ−ルデンウイ−クに春 は行く。晩春にその初夏を呼び込むのが、優しく柔らかく降る穀雨である。行く春を惜しみながら、この優しい雨に触れたい。五月の 日差しは真夏並みだが、気温は十月とだいたい同じである。五月と十月とでは、季節感は随分違う。五月は新緑、十月は紅葉、五 月は短夜、十月は夜長。 季節の変わり目を迎えて木々のが芽吹き、新芽の淡く薄い黄緑色はとてもやわらかく感じる。これから一雨ごとに緑が濃くなり、気温 が上がるごとに山の表情も変化していきます。変化すのは自然だけではありません。人の生活も変わります。私たちは過ぎ去った季 節をひきずったり、あるいは次に来る季節に心を向けながら日々を過ごしている。これは年齢によっても違ってくる。若い人は気温 の上昇とともに、無意識のうちに夏を期待している。お年寄りは明日を思うより、昨日の思い出に浸っていたいのだろう。思い出は 浸るものではなく、作るものだというのは、年齢とともに薄れていく。 農事暦の夏は田植えに始まる。昔は旧暦五月が早苗月とも呼ばれ、田植え月であった。田植えには日平均気温が十五度あたりが 必要で、地方によってはウツギ(卯の花)や花菖蒲などを田植え花といって田植え開始のめやすにした。ホトトギスにせよウツギや花 菖蒲など大昔から村人は田植えの合図・サインとみたのである。当地の田植えは、5月の連休明け頃になります。田んぼでは田植え に備えての準備が稼動しています。 田植えといっても前準備が必要です。まず春鋤きをして土を掘り起こします。イネの苗を育てるためモミを苗代に蒔く、20日で10c mに育つ。 田植えの二週間〜10日前に水が抜けるのを防ぐ 「代掻き」 を、更に田植えの1週間〜4、5日前に 「植えしろ」 をして、 いよいよ田植えとなります。「5月晴れ」の元の意味は、梅雨の晴れ間をさすという。梅雨に入ればもうあらかた田植えは終わってい る。一昔前のごちゃごちゃした水田に比べ、近頃の水田は整然としてきれいになった。農村の風景が変わったのは昭和38年から はじまった国の圃(ほ)場整備の影響だ。「21世紀型水田農業」の基板整備を目指して、田畑を整然と区画し、農作業の機械化、 省力化を推進してきた。長方形の区画は一回り大きくなったし、畦畔も蛇行せず、幾何学的な一直線になっている。一昔前に牛が 鋤いていたものがトラクタ-に、人海戦術で植えていた田植えが田植え機に変わった水田風景が広がります。昔は短い期間に多く の労働力を集中する田植えは、稲作全労力の四分の一強、10ア−ル当たり二十五時間を要した。この単調で長時間の重労働で あるから、大勢で一緒に行い、田植唄や田植えばやしによって激励・強調をはかって進めた。だからこの重労働を機械化によって 省力化することは永年の農家の夢であったわけだ。機械化に拍車がかかってからは、手植えの十分の一の時間で、しかも1〜2人 の家族労働だけで田植えをすますことが可能になった。今や田植えの時期は、のどかな田植唄の昔に代わり、エンジンの轟音とと もにわずか数日で終わってしまう。人々はあわただしくまた町に働きに出てしまい、静寂さをとり戻した水田には、カッコウ、ホトトギ スが鳴くみである。 畦塗りは、田んぼを取り囲んでいる土の壁に田んぼの土を塗り付けて、割れ目や穴を塞ぎ、防水加工をすることです。モグラやケ ラが開けた穴から水が漏れるのも防ぎます。水が漏れると、水の管理が困難になるだけではなく、除草剤や肥料の効果も低下しま す。畦塗りは、田植えの1〜2ヶ月前に行います。昔は畦塗りをするために牛や馬に牽引させていましたが、いまではトラクタがその 役割を担っています。トラクタは、トレ−ラ−や道路機械・農業機械などを牽引する原動力車のことで、畦塗りにも欠かせない車で す。米作りでは、農作業の目的に応じてインプルメント(道具・用具)を取り付け牽引します。 トラクタは作業機を牽引するだけではなく、回転や上下動など、農作業に応じてインプルメントを動かすことができます。トラクタの エンジンは、走行のためのタイヤだけではなく、取り付けたインプルメントにもパワ−を伝える装置が装備されています。この装置 をPTOと言います。農作業に応じて工夫されたインプルメントを取り付け、PTOで駆動することにより、トラクタは米作りのなかで、さ まざまな役割を担うことができます。トラクタに付けた畦切り爪が回転して、前年の畦の土を、上から下に細かく砕きながら削ります 。畦切り爪のディスクが下から上向きに回転し、細かく砕かれた土を押し付けて、堅く締まった丈夫な畦を作ります。土が細かく砕 かれているため、隙間のない畦ができます。 今年は季節の進行が早いというのに初夏を告げるトップバッタ−のホトトギスがまだ鳴きません。南方からの渡り鳥だが、南の国々 では季節が進んでないのだろうか。「てっぺんかけた 」 「 特許許可局 」 とも聞える鳴き声で高らかに鳴きます。ホトトギスが鳴くと 田植えの合図、あちらこちらで田を掘り起こすトラクタ−の音が聞こえます。 羽ばたきといえば、山でケッケ−ンというキジの鳴き声が聞かれます。その鳴き声の後に、ドドドドッと羽を打ち付けて音を出す 「ほ ろ打ち」 と呼ばれる動作を繰り返します。キジは飛ぶのは苦手のようで、もっぱら走って逃げる。すぐ近くまでじっとしていて、急に 飛び立つからこちらのほうが驚く。図体が大きいから他の鳥と迫力がまるで違います。頼みごとに無愛想に拒否することを 「けんも ほろろ」 というが、「けん」 はキジの鳴き声、「ほろろ」 は羽音といわれており、無愛想なキジの様子からきているらしい。 田起こしも終わり、水を引くのをまつ田んぼ このところ九州北部と中国地方では、広い範囲で黄砂を観測しており、所により視程が10km未満となっています。視程(水平方向 で見通しの効く距離)が5km未満になる場合には、交通への障害が発生するおそれがあります。車の運転などは十分に注意をす る必要がある。このほか、黄砂を吸い込むことによる体への影響も心配される。呼吸器の疾患がある場合などは特に注意を払い、 黄砂の飛来の状況がひどければ外出を控えるなど対策をとる必要がある。桜山から俵島がほとんど見えないほどの黄砂到来であ る。元来中国大陸からの黄砂の飛来は、なぜ春だったのか。発生源の黄土高原やコビ砂漠など中国内陸部奥地で、雪が溶け大 地が乾燥してから巻き上げられた砂ぼこりが、偏西風に乗って遠く日本列島にまで運ばれていた。今春は降水量が少なく、乾燥し て低気圧で空へ巻き上げられやすい状態が続いていた。 黄砂にけむる俵島 済んだ日の俵島 「夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が繁る」 ・ ・ ・ お馴染みの「茶摘」の歌である。1日は立春から88日目に当たる 「 八十八夜」。この日に摘んだ茶を飲むと長生きすると言われる。県内最大の茶の産地、宇部市小野の藤河内茶園では、 新茶の収穫作業が最盛期を迎えている。山口県産のお茶の9割を生産する藤河内茶園。小高い丘に広がる約70haの茶 畑は、一か所での茶畑面積としては西日本最大で、その景色には圧倒されます。冬に小野湖から湧き上がる濃い霧がお 茶の生育に適した環境とされ、ほどよい苦みと渋みが調和した宇部のお茶が出来上がります。10日ごろまでは一番茶、6 月中旬まで二番茶の収穫作業が続く。毎年は約30万キロを収穫する予定で、特産品 「山口茶」 として出荷される。 新しいアジサイ群は三年になるが、植えた苗は大きくならず、壊滅的状況になっていた。原因は鹿の食害である。鹿の口の高さ 未満のものはすべて食べられている。元は竹林だったところだから、掘り起こすのが困難ほど竹が根が密生して土壌もやせて良 好とはいえなかった。だから堆肥を注入して土壌改良をやってきた。車がよく通る町道沿いにもかかわらず、鹿の食害がおさまら ない。もう尋常ではないほどの鹿が出没しているのだ。今回意を決して網を張ることにした。 日本の夏は三つの季節を含んでいます。むせ返るばかりの若葉が山野に満ち、青空に鯉のぼりが泳ぎ、シャクナゲの咲く 五月から、来る日も来る日も曇天が続き、雨に濡れて紫陽花のひっそりと咲く梅雨を経て、炎暑が列島をおおいつくす七 月へ ・・・・・・ この豊かな季節は自然をたたえ涼を求める懐かしい風物詩に彩られます。一年を通じて心身ともにリフレシ ュし、自己啓発出来る時期はそう長くありません。その中でもこの季節は最適と申せましょう。 桜山からのぞむ岳山はいつも同じ姿ではありません。四季折々違う表情を見せます。大寒を過ぎたころの姿は暗く厳しい。春が訪 れ、香しく爽やかな五月の薫風が吹き渡る岳山は、椎の淡黄色の花で彩られます。そしてむせ返るばかりの若葉が山野に満ち溢 れます。 昔は短い期間に多くの労働力を集中する田植えは、稲作全労力の四分の一強、10ア−ル当たり25時間を要した。この単調で長時 間の重労働であるから、大勢で一緒に行い、田植唄や田植えばやしによって激励・強調をはかって進めた。だからこの重労働を機 械化によって省力化することは永年の農家の夢であったわけだ。機械化に拍車がかかってからは、手植えの十分の一の時間で、し かも1〜2人の家族労働だけで田植えをすますことが可能になった。とはいえ農家の高齢化はいかんともしがたく、都会に出ている 息子夫婦に手伝ってもらっている農家も多いはず。一昨年までコロナ禍の真っただ中、全国各地で田植えが集中するゴ−ルデンウ イ−クを迎えている。例年なら祖父母ら地元で暮らす家族が田植えで帰省してきた子や孫と再会を喜び、共同で作業する光景が見 られるが、感染症の拡大を防ぐ観点から、帰省の自粛が要請されていた。市外に住む息子、娘の帰省を受け入れていいのかどうか 、多くの家庭が悩む中、田植えが始まていた。コロナ禍が静まった今年からはまた平年どおりの姿にもどるのだろう。のどかな田植唄 の昔に代わり、エンジンの轟音とともにわずか数日で終わってしまう。息子、娘家族はあわただしくまた都会に戻り、静寂さをとり戻し た水田には、年寄り夫婦とホトトギスが鳴くのみである。 そのホトトギスの鳴き声が聞かれない。調べたら5月の連休後の13日に初めて鳴いたこともあったようだ。 長門市 向津具半島 田植えといっても前準備が必要です。荒起こしはトラクタで硬く固まった土を砕き、空気や水を入れて柔らかくすることで、保水力 ・排水性・通気性がよくなり、微生物の活動も活発になり、稲が育成しやすくなります。また雑草の発生を減らすと共にわらを埋没さ せ、分解を促進します。耕うん作業は荒起こしでざっくりと混ぜて乾かした状態の土をさらに土を細く砕き根付きのよい土壌にして いきます。 イネの苗を育てるためモミを苗代に蒔く、20日で10cm に育つ。稲は雑草に比べて弱く、田んぼにそのまま播種すると雑草に負け てしまったり、発芽しないこともあるため、育苗箱で確実に苗を育てます。播種作業では播種機に種もみと土を入れ育苗箱に種も みをまいていきます。まとめて育て、生育を揃えることでその後の管理も楽になり、刈り取り時期も揃います。また育苗箱で育てるこ とで機械による田植えが可能になります。 フグの本場、山口県下関市の南風泊市場で、今シ−ズン水揚げされたフグに感謝する供養祭が行われました。供養祭には、県内外から漁業者や市場関係者などおよそ300人が出席し、はじめに「下関ふく連盟」の郷田祐一郎理事長が「私たちに尊い命をささげたふく殿に心から感謝します」と述べました。
続いて、出席者たちは、重さ4.7キロの天然のトラフグを入れた水槽が脇に置かれた祭壇でひとりずつ焼香して、今シ−ズン水揚げされたフグを供養していました。このあと、供養祭では、来シ−ズンの豊漁の願いを込めて、地元の小学生たちが近くの岸壁からトラフグの稚魚およそ1000匹を海に放流していました。
下関ふく連盟よりますと、去年11月から28日までの今シ−ズン、南風泊市場で取り扱ったトラフグの量は前のシ−ズンとほぼ同じ840トンだったということです。「下関ふく連盟」の郷田理事長は「地球温暖化の影響でフグの漁場が北方に広がっている。フグの産地も分散化し各地でブランド化されているが、本場におごることなく新しいものを取り入れていきたい」と話していました。 4月も終わりました。4月の春の嵐で山桜数本が倒れました。本格的な春の嵐「メイスト−ム(5月の嵐)」はこれからだ。日本付近に北 から入り込んでくる冷たい空気と南から流れ込む暖かい空気がぶつかりあって上昇気流が生まれることで、温帯低気圧が急速に発 達する。10年前くらいに桜の大木が十数本も倒れたのを経験している。これも5月の爆弾低気圧だった。これは倒れたから修復がで きたが、幹が折れてしまえばもう終わりだ。山の上は平地に比べ、かなり風が強い。四年前に伐採してからというもの、毎年強風で折 れるのは数本ある。不思議と夏から秋の台風ではなく、この春の嵐である。桜の木はもろく、衝撃に弱いのだろう。 桜山は鹿との葛藤の歴史であった。鹿被害のため、本来あるべき進捗が半分程度もいってないだろう。都会から帰ってきた二十数 年前には、鹿など家の周辺でみることはなかった。サルも同様である。人家に出没するようになったのは、過疎化による人口減少、 森林整備の衰退だろう。温暖化による山の幸が不足する自然崩壊もあるかもしれない。鹿出没以前にやらなければならない作業が あった。荒廃した桜山の整備である。桜守の祖父はすでに他界しており、すでに13年が過ぎていた。深く広大に進入した千本近い 孟宗竹の伐採、大きく成長した椎の木などの雑木の伐採である。多くのヒノキを伐採し、山も購入して桜を植えてきた。鹿の出没は その頃からである。以後ずっと鹿被害は続いている。四年前に購入伐採した山も鹿対策は避けては通れない。桜は植えれば自然 に育つものではない。しっかりした管理が必要だ。鹿対策、害虫(毛虫)対策水対策、雑草対策等々。夏の渇水対策、鹿対策がメイ ンだが、二年前からイノシシの被害が急増している。鋭い牙で1b近くも根の周辺を掘り上げる。 田んぼには水が張られ、田植え機が入るのを待っています。なぜ田んぼに水をためるのでしょうか。稲はもともと熱帯の作物で、日本 の土壌はお米を育てるのに向いていたわけではありませんでした。しかし、水を溜めるということで、全てを解決したのです。それ以外 にも日本は温帯にもかかわらず、熱帯並みの暑さと、雨量の多さが稲作を可能にしているのです。 本来、無色、無味、無臭である空気が動いた風に色香があるわけはない。風に色や光や香りを感じるのは、詩人の心である。が、 新緑には、詩とは別の意味で、たしかに香りがある。それは植物体から発散される芳香性の微粒子によるものである。この微粒子 はフイトンチッドと呼ばれ、細菌類を殺す作用を持っているといわれる。この匂いは本来、害虫や病原菌を寄せつけないようにと、 植物の自己防衛のために発散される。漢詩の世界では夏の風が薫風だったのが、5月のさわやかな風になったのは、大陸とは違 う日本独自の天候によるもの。香しい五月の風は、いかにも薫風と名づけるに相応しく、そこから 「 風薫る 」 という言葉も生まれま した。すでに田んぼに水が張られているところがあります。傾向として隣り町の長門油谷では田植えが早いようだ。農事暦の夏は田 植えに始まる。昔は旧暦五月が早苗月とも呼ばれ、田植え月であった。 田んぼに水入れが始まると、乾いた田は水の世界になります。田植えが始まった田んぼには生き物たちの小宇宙があります。トンボ の生地は田んぼである。ヤゴは10回の脱皮を繰り返し、羽化して成虫のトンボになります。日増しに増える昆虫を求めて鳥たちが集 まってきます。田んぼに入ってくるものは昆虫や鳥だけではありません。メダカ、フナ、コイからドジョウ、ナマズのようなものまで入っ てくる。目的は子孫を残すこと、産卵のためである。初夏の田んぼは、さまざまな生き物たちでにぎわいますが、同時に命をかけた 壮絶な闘いが繰り広げられます。 田んぼに水が入れられています。各農家の農作業の段取り、スケジュ−ルにより、水を入れる行程も様々です。日程に余裕がある 場合は、数日かけてゆっくり少しずつ入れて土になじませていきます。日程が詰まっている場合は、一日で一杯にします。水路の取 り入れ口で調整するのです。 5月に入り、抜けるような青空が広がります。木々の新緑が映え、涼しげな風が緑の香りを運びます。この初夏の快さを大宗は 「薫 風自南来 」 薫風南より来る) と詠み、南から匂うように吹く快い風を薫風と称えた。香しい五月の風は、いかにも薫風と名づけるに 相応しく、そこから 「 風薫る 」 という言葉も生まれました。この風はいくつかの移動性高気圧が重なって、帯状に大陸まで東西に長 く伸びた五月晴れのときに吹くようです。 若葉が山野に満ち溢れます。桜やカエデの葉は茂り方がすごいから、人によってはうっとうしいと思う人もいるだろう。一年中こうだと うっとうしいと思うかもしれないが、落葉樹だから、晩秋から春までは落葉してあたりはすっかり広々して明るくなります。落葉樹と常緑 樹では新緑の形態が違います。落葉樹は木全体が新緑で覆われますが、常緑樹では古葉の間に新葉が混じる新緑になります。こ れは葉の寿命によるもので、例えば葉の寿命が三年なら、ほぼ三分の一が新葉で、残りは古葉、つまり三分の一の新緑となります。 この風薫る五月は、四季を通じて最も華やかな時期になります。 5月のスタ−トにいきなりの雨、30_は降っただろうか。4月は雨が少なく、40_ぐらいだった。乾きに飢えた桜にとっては有難く貴 重な雨になった。しばらく雨の予報は入ってなかったから、ラッキ−! ひとまず一安心。 4月に幹回り90p、樹高6bのソメイが倒れているのをみつけた。もう一ヶ月近く経っているが、葉が出ており枯れていない。倒れてい るといっても根が地表にむき出しになってないから、持ちこたえているのであろう。起こすトライもしてみたが、手動のパワ−ウインチで は微動だにしなかった。水を運び水分補給をしてやろうと思うが、これから先の30℃を超す酷暑ではたしてもつかだ。 ふと山の上の方をみると陽光桜の古木が折れているではないか。おそらくここ一両日中の出来事だと思う。山の頂上付近は強い 風が吹く。今春は桜の>6本が枯れた。真夏ではなく、春先にわかったことである。昨年の長く続いた猛暑、それに近年なかったよう な立春以降の寒さに原因があるのだろうか。なにしろ梅の開花や満開が一ヶ月も遅れたのだから。桜は植えてしまえば、ほっといて も育つというものではない。 日本の夏の始まりを暦の立夏とするならば、日本のは三つの夏があるといえるだろう。第一の夏は、五月の初夏、日差しは強いが、日中の気温は、関東以西では22〜24℃ぐらいで、薄暑の感じであっても、熱帯なみの暑さではない。ヤマブキ、ライラック、シャクナゲなどの初夏の花が咲いている。新緑の林にはセミの声は聞こえず、雑草はなよなよして、静かな夏である。
ヨ−ロッパのサマ−が、まさにこの第一の夏と同じ気候なのである。第二の夏は梅雨である。一年中で一番日の長い季節だというのに、日光は低くたれこめた雲にさえぎられしまう。東京の六月の日照時間は134時間で、一年中で最も日の短い十二月より34時間も少ない。第三の夏は、梅雨が明けた後の七月後半と八月の盛夏である。通常、われわれが夏と呼んでいるのは、この期間である。
亜熱帯を思わせる青空に、太陽はギラギラと輝き、熱気につつまれた林の緑は、日に日にくろずんでいく。第一の夏を温順な自然とすれば、第三の夏は、雑草や害虫にまで 「恵み」 の及ぶ生命力に満ち溢れた自然である。セミが鳴き、蚊やハエが飛び交い、ちょっとほおっておくと庭に雑草が生い茂る。ヨ−ロッパのサマ−とくらべた場合に、第二、第三の夏は、日本に独特のものである。
熱帯並みの暑さの分だけ、日本では農耕期間の季節幅が広いのである。そして日本で稲が作られるのは、その季節幅
の広さと、雨量の多さのゆえんである。稲の発芽から成熟までの日々の平均気温を積算してみると、3800℃で、稲の栽培にいかに大量の熱が必要かわかる。第三の夏の存在が、稲の栽培を可能にしているのである。 バラが咲いてきました。高貴な香りが漂います。バラの魅力は色、形が 完璧であること 「 色彩のシンホニ− 」 といわれる ほどの色彩美の極致。バラを素材として唐詩で名高いのは、高(こう)べんの七言絶句 「 山亭夏日 」 です。 " 緑樹陰濃やかにして夏日長し 楼台影を倒にして池(ち)とうに入る 水晶の簾 動いて微風起こり 一架の薔薇満院香し " (みどりしたたる夏木立の影、楼台をさかさまに映した池の面、吹きくる微風が水晶のスダレを動かすと 一棚のバラの香りが中庭に満ちあふれる
) このとき山中の 「 あずまや 」 は俗塵を離れた清涼の 世界であり、人は炎暑の何物
たるかを知 らない。 桜の花が終わって日が経たないのに桜の葉の食害が起きていることがある。毛虫の仕業である。毛虫といえば、一番被害があるの がモノクロシャチホコ。ただこの毛虫は晩夏の8月頃の毛虫です。桜の花が終わった直後の食害としては、オビカレハ、ドクガがあ る。 「オビカレハ」 は枝のつけ根に白いクモの巣状の巣をつくるからすぐわかる。ドクガなのだろうが、刺されると痛い目にあうから 注意がいる。