システムと規範

 昨日は高円寺にある知人宅の新年会に参加した。
 高円寺といえばねじめ正一氏がガラクタを売ったり、インドかぶれがお香を売ったり、インドもどきがインド洋品店を開いたりしているところかと思っていたが、実は古本屋が多いのだそうだ。しかも駅前には吉野家も松屋もある。商店街の薬局には、「ティッシュ20円だちゅのー」と、手書き、下手くそ、流行語しかも間違ってる、の三冠王のビラが貼ってあったりする。
 これだけで高円寺がいかに素晴らしいところか分かるだろうが、知人はそこの高級マンションの主なのだ。富士を見下ろす高級なマンションの一室で高級な料理と高級な酒を楽しみ、高級な方々と高級な会話を交わしていたのだ。まさに高級なひとときであった。
 その翌日、日曜日の朝をなぜか蒲田のカプセルホテルで迎えることになったのは、あまり高級な事態でもないし、多分幸せでもないような気がする。しかも寝坊してクレヨン王国を見逃した。ますます幸せでない。しかも前日の夜食、今日の朝食と、2回連続で吉野家の牛丼を食べた。これも私にとっては幸せだが、端から見ると不幸な情景に見えるかもしれない。おまけに二日酔いのせいもあって胸焼けした。これも不幸。

 いや、私がいかに不遇で不幸か、世間に訴えかけるのがこの駄文の目的ではない。じつは、新年会の前に、回転寿司にこれまで行ったことがない、という人を回転寿司に連れていったのだ。狭いカプセルの中で不幸を噛みしめながらも私は、回転寿司、カプセルホテル、吉野家の三者には初心者、とくに女性の参加を阻むなにものかがあることを考えていた。
 それは煎じ詰めれば、「独自のシステムへの参加を強制する」というところではないかと思う。

 回転寿司は新宿の「夢街道」という、割と評判のいい大型店であった。
 初心者のその人は、まず寿司を載せた皿がベルトコンベアに乗って回転していることに驚いた。これは普通の寿司屋にはないことである。回転運動を食の世界に取り入れていること自体、異例なことだ。工場では同じようなベルトコンベアで回転しながら食品を生産しているわけだが、それを消費者に見せることはない。
 次に、寿司の値段が皿の色や模様によって整然と区別されていることにも驚いた。普通寿司屋ではマグロの値段がいくら、トロはいくらとの表示さえしていないことが多く、値段は最後のお勘定で板さんが呟く金額をおののきながら聞くことで確認するしかない、というのが通例である。少なくとも値段の差を皿の色で見せつけるような行為は、はしたないこと、と感じるのが平均的日本人の感性であった。
 またお茶が完全にセルフサービスで、しかもお湯の蛇口が客の目の前に林立している、ということにも驚きをみせた。確かにあれは、考えてみれば異様な光景である。ますます工場を連想させる。
 注文方法が変わっていることには、私もあらためて驚いた。昔は、回転寿司の客は、目の前に流れてくる皿を黙々と取り、黙々と食べることにダンディズムを見いだしていた。握って欲しいネタを声に出して注文するような行為は、回転寿司のモラルに反する、回転道にもとる邪道者、と軽蔑していた。
 それが今では、客のほとんどが、「エンガワとイクラ!」「牡丹海老とウニ!」などと気軽に注文するのである。店員も、「どんどん注文してくださいね」などとその行動を是認している。たしかに、黙々と流れてくる寿司を待っているより、注文した方が早い。握ってすぐだから、ネタも新鮮だし海苔もぱりっとしている。
 しかし、回転寿司のダイナミズムがそこにはない。回転寿司の魂が、そこからは失われている気がする。
 回転寿司とはこのように、通常の店とはまったく異なるシステムを、常識として受け入れることを客に強制する。そこに入ることは食文化のパラダイムを変換することであり、ほとんど文化人類学的な経験である。初心者が入りにくいのもそのためだろう。

 同様にカプセルホテルも、普通のホテルとは全く異なるシステムへの参加を強制する。
 フロントで料金を前払いし、キーをもらってロッカーをあけると、そこにタオルと寝間着がある。
 誰とも知らぬ人が、すでに下段で寝ている。
 その上段の狭いカプセルに潜り込み、そこで着替えをする。私室と言えるのはそのカプセル内だけであるから、着替えはそこで行わなければならぬ。
 シャワーを浴びたい人はカプセルを出て別のシャワー室に行く。酒を呑みたい人は休憩室の自動販売機で買って呑む。カプセルの私室内での行為は、テレビを見ること、寝ることに限定される。この辺も初心者にとっては、ちょっと戸惑うところである。

 女性で、吉野家にはどうも入りにくい、と告白する人が多い。私は馴染んでしまってなんとも思わないのだが、やはり初心者には違和感を感じさせるシステムなのだろう。
 まず、待っていても席へ店員が案内してくれるわけではない。自分で空席を探し、勝手に座らねばならぬ。座ったら15秒以内に注文をしなければならぬ。手間取ってはいけない。卓上にある紅生姜は勝手にとってもいいが、ケースに入っているサラダとお新香は勝手にとってはならぬ。店内での談笑は基本的に禁じられている。などなど。
 「迅速、決断、実行」を旨としたシステムであり、そこが女性の苦手とする原因なのかもしれない。

 女性ではなく外国人も、吉野家のシステムを苦手としているようだ。朝食を食っているとき、韓国人らしい若い男性が入ってきた。まず、どこに座っていいか、1分ほど逡巡していた。座ってからも、メニューを2分ほど眺め、やっと「…ナット定食」と小声でいい、「あの、お金、前払いてすか?」と店員に尋ねていた。
 定食が届いた後も、店員に「あの、」と声をかけ、
「ええと、シュガー、お砂糖、ありますか?」と尋ね、「ありません」と素っ気なく言われた彼は、
「そうか…、お砂糖、ここにはないね。マクドナルド、あそこならあったね」と砂糖に執着していた。
 しかし、彼は、納豆定食の何に砂糖を掛けたかったのだろうか。納豆か、味噌汁か、それとも海苔か? ちょっと変だぞ、その味覚は。
 いやいや、彼はひょっとしたら崇高な殉教者なのかもしれない。「朝鮮人は辛いものばかり食べる」という、日本国中に広まったいわれなき民族的偏見と闘うため、「韓国人も甘い物好きはいるぞ」と身をもって示しているのかもしれない。日本中のすべての外食屋で、食品に砂糖を掛けて食べるパフォーマンスを行って廻っているのかもしれない。
 そうだとしたら、偉い奴だ。民族的英雄だ。ぜひお近づきになりたいものだ。彼に声をかけ、友人となり、共に連帯して行動すべきだったかもしれない。
 彼の手料理を食べるのだけは勘弁してもらいたいけれども。


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