とある車中の会話

「だからよゥ、それがいかンつゥの」
 通勤電車内での眠りを覚ましたのは、横に立っている2人組の男の会話だった。
「これから行くンだろ?オレ、チェックする時間無いじゃンよゥ」
「はあ」
「前からオレ言ッてンだろゥ?もっと前から見せろッて」
「はい」

 正確に言えば会話ではない。一方的に年かさの男が一方的に喋っている。年下の男は肯定を示す単語しか発していない。
 会話が読みとりにくいという苦情もあるかもしれないが、できるだけ正確に口調や強調を伝えようという苦心のあらわれだ、許してくれたまへ。
 ついでに注釈しておくと、年かさ男の会話に頻出する疑問符は、疑問を表す記号では決してない。一方的な断定であり押しつけであり、若い男の「はい」という言葉を引き出させるためだけのものだ。よく英作文で出る、反意表現というやつだ。

 ふたりはどうやら何かの営業職らしい。建設関係なのか、保険関係なのか。
「見積もりいくつ出した?」
 おお、やっと疑問符を本来の用法で使ったぞ。
「ええと…昨日の分が4つ、今日のが3つ…」
「八千代の分は出したかよゥ」
「いえ…あそこは…」
「だからよゥ、オレに見せろッて言ッてんじゃン!さっさと見積もり出さねッと、回収が間にあわねッて」
「はあ」
「そンでオレが怒られンだからよゥ」
「はい」
 怒られておる。
 しかし公共の場で部下を叱るというのは、ルール違反だよなあ。たまにいるんだけどね。このまえはもっと凄かったよなあ。電車の中で怒鳴りつけていたもんなあ。
 こういうのって、やっぱり権力を誇示していい気になっているんだろうなあ。観客に自分の権力を誇示して、で、部下のことを思って言ッてンだッて演技してよゥ、あ、口調がうつっちゃった。
 しかしチンケな権力だよな。

「回収もさァ、もっと考えて動かねッとさァ」
「はい」
 怒られている人間の常として、若いのはだんだん口数が少なくなる。
「ただ行ッてきましたッ、駄目でしたッてンじゃ、おまえ回収できッこねじゃン」
「はあ」
「今の世の中、バカチョンで動くンじゃ駄目だッての」
「はあ」
 この手の人によくあることだが、差別用語など歯牙にもかけないのであった。

 やがて怒るのにも飽きたのか、同僚の人物評へと会話は移る。
「佐々木もなァ、やる気あンのかッて言いたくなるよなァ。契約少ねッしよゥ」
「そうですね」
「眼鏡は汚ねェしよゥ、なンか陰気だしよゥ、話術があるわけでもねェしよゥ、あれで客先行かれちャよゥ」
「ええ」
「あれで見えンですかッて聞きたくなるぐらい汚ねェもンなァ」
 さんざん佐々木さんの眼鏡の汚さを糾弾している。
 しかし、他人の眼鏡が汚いのって、気になるのだろうか。掛けている本人は、意外と気付かないのだ。ちょっとぼやけてるな、の程度に思い、拭こうとして外してみてはじめて壮絶な汚さに気付き、「おう」などと剣豪のような感嘆詞を発したことがある。

「ちょっと側に来ンなッて感じだよなァ。不潔ッぽくッてよォ」
 この手の人によくあることだが、同僚の悪口を言うときが一番楽しそうなのであった。
 しかし佐々木さんの不潔を怒るけれど、おじさん、あなたは。
 確かに背広はきちんとしている。着慣れていない感じだから、いつもはジャンパーなのかもしれないが。髪も洗っているようだ。靴も磨いている。眼鏡は掛けていない。
 でも、私、あなたに近寄りたくない。
 なんか、嫌なものが漂っている。あなたの周りに。
 たぶん、あなたと私の間には、1ミリの接点もないでしょう。
 一生近寄らずに過ごせたらいいですね。

 そんな私の思いをよそに、おじさんの人物月旦は続く。
「山崎もよゥ、なンか分かンねンだよなッ」
「そうですね」
「個人プレーだもンなッ」
「ええ」
「貯め込ンじャうンだもンなッ、ノウハウ」
「はい」
「そうじゃねッだろッて、ゆーンだッて」
「はあ」
「だから大森、知らねッで柏行ッて、恥かいたろッ」
「ええ」
「まあ大森も天狗ンなッてッから、いい薬だけどさッ。がははは」
「はあ」
 若いの、もう会話に疲れています。返事が短いです。うんざりです。

 おじさんは嬉々として会話を続ける。
「昨日の番組、オレ録画してみちゃッたンだ」
「はあ」
「60こいてさァ、店始めよッてンだから、無茶だよなッ」
「ええ」
「物覚え悪いもンだから、師匠キレちまッてよッ、怒られてよゥ」
「はあ」
「客商売の経験ないもンで、客の立場に立てねンだよゥ、爺さンよッ」
 とにかくおじさん、テレビだろうが同僚だろうが、他人の失敗を見るのが、無上の喜びのようです。
 自分に影響がない限り、という条件付きで。
 頼む、客の立場に立たなくていい、せめて他の乗客の立場に立って、その大声はやめろ。


戻る                 次へ