笑いの構造<なんて高尚な題名は百億年早いわ

 読者が読んで面白いかどうかは強引な力で脇に置いとくとして、いや置けるようなものではないのだが、漫才という形態はなぜ書きやすいのかと考えていて気付いた。それは二人称の形式だからだ。
 当たり前だ、と思われるかもしれないが、漫才はひとりではできない。必ず二人で行う。いやそれならレッツゴー三匹はどうなる、かしまし娘はどうする、チャンバラトリオは如何、という異論があるので、ここでは複数で行う、と妥協しよう。いや妥協でなく本当にそうなのだが。
 その複数者の間には必ず役割分担がある。ひとりがボケひとりがツッコミ、二人のボケをひとりでツッコむ、あるいはボケとツッコミの役割を交代し、もしくは全員がボケ合う、しまいにはひとりのボケを九十九人がツッコむ、しかもドツキ漫才、という唐沢なをきの漫画のような、様々な様式が展開される。あ、ややこしいですか。いちいち列挙するからいかんのですね。しかしここで守られているのは、ある人間のボケに対してツッコむのは必ず別人という原則だ。
 当たり前でないか、自分のボケに自分でツッコむのは二重人格者だ、と思うだろうが、ここが重要なのだ。自分のボケには自分でツッコめない、逆に言うと他人のボケには思う存分ツッコめる、だから漫才台本という複数の会話形式では、存分にボケ、存分にツッコめるのだ。

 それなら落語はどうか、というと、実はこれも二人の会話をひとりの話者が演じる、という形を取っている。構造的には漫才と同じなのだ。コントはどうだ、という問いに早回りしてお答えしよう。早回りする必要もないような気がするが。あれもアクションが伴うだけで、漫才とまったく一緒である。簡単すぎるよ、結論が。

 となると漫才と異なるものとしては、漫談というひとり語り形式だけが残される。これは、自分自身というひとりの人格が体験したこと、感じたことを、ひとりの話者が語る、という形式を取っている。そしてこれは、エッセイ、コラム、雑文、随筆、どんな名前でもいいが、雑誌やインターネットに公開される文章の多くとまったく同じ構造なのだ。ええいややこしい。なんか適当な名前はないのか。とりあえずここでは「文章」で話を進める。
 ひとり語りであるから、自分のボケにツッコむのは自分しかいない。ここで漫才のように強烈なボケに強烈なツッコミで返したらどうなるか。主人公の人格は破綻し、話の筋は崩壊し、作者は二重人格の疑いを受け、というようにろくな事が起こらない。いや、それはそれで楽しいという説はあるが。例えば「多重人格の会話」という形式の文章は既にキース氏が書いているので、ここでは浅学非才ながらも地の文章での人格分裂、というか、地の文章に対し地の文章でツッコミを入れようと努力しているのだが、いや難しい。文章が複雑になってうっとおしいだけで、ちっとも面白くない。それは自分が浅学非才だからだってば。
 ともあれ通常、自分のボケに対応するツッコミは弱くなる。自分の言動にふと我に返って苦笑、というくらいなものが望まれるのだ。
 よくありますよね。文豪の随筆なんかで「夕日を照り返す柿の実があまりに美しく、私は柵を乗り越えて年甲斐もなく木に登った。二メートルほども登っただろうか、持ち主らしい中年の男性が下で怒鳴っているのに気付いた途端、ふと思った。これでは泥棒ではないか」あたりまえや。最初から泥棒やちゅうねん。なぜに関西弁になる。
 これでは笑いが弱い。微笑み程度にしかならない。それでは新聞家庭欄の「我が子の失敗」やファミリー四コマ漫画のドジなOLくらいの笑いしか取れない。そんな漫談ではトリが取れない。

 ひとり語りで、笑いを強化するにはどうしたらいいか。ボケとツッコミを分離するしかない。といって人格を分離しては本当の二重人格者になってしまう。自分でない、ある対象を設定し、それに対してツッコむという手段を取らざるを得ない。
 たとえばライフスペース事件のような、世間で起こった事件をボケにして、それに自分がツッコむ。ピカチュウのような事物をボケ役として、それにツッコむ。竹中直人のように世間一般の「おっさん」という存在を抽象化して演じ、演じることによってそれを批評する、というツッコみ方もある。漫談にしろ文章にしろ、成功しているものはこの方法をとることが多いようだ。
 問題はこの場合、世間の事物がうまい具合にボケてくれるとは限らないのである。漫才なら優秀な相方は、「こういう具合にボケてくれたらいいのにな」と思うまさにその通りにボケてくれる。もっと優秀な相方は予想もつかないボケを見せてくれるのだが、それはそれとして、世間の事物はふつう、貴方の相方にされた覚えがないので勝手に行動する。「こうなれば面白いのに」という方向に向かってくれないのだ。一番面白い人物が逮捕されてしまったり、事件が解決してしまったりもする。理不尽だ。当然だって。
 しかたなく演者は、真実の事物でなく「こうあればいいのに」という理想化された事物に対してツッコむようになる。平たくいえば事実をねじ曲げる。その方が面白いからだ。それが世間一般では「嘘」と呼ばれたりもするが、それもやむを得ない。いや、どう考えても嘘なのだが。

 もうひとつの方法がある。先ほどの方法は事物に対し自分がツッコむ、という方法だが、今度は逆に自分がボケ役になるのだ。
 坂田利夫や間寛平などの芸人は、ツッコミ役抜きで、ひとりで登場しても、自分一人で思いっきりボケ、そのままにして帰っていく。つまり自分がボケ、それに対し観客や読者がツッコむという形式だ。単にボケ以外の演技を知らない、という説もあるが、そんなものではあるまい。
 この方法にも欠点がある。観客や読者がツッコんでくれない場合は、惨憺たる結果に終わるのだ。普通に受けなかった場合どころではない、恐るべきダメージが演者にのしかかる。だからこそ坂田利夫、間寛平のようなビッグネームしか敢えて試みないのだろうと思う。
 これを文章に応用するとどうなるだろうか。ボケ続けなければならないのだ。ボケの文章だけで読者に意味をわからせる必要があるのだ。ツッコミを書いてはならないのだ。これはかなり難しいものではないかと思う。敢えてやってみるとすると、

 クリスマスが遠ざかっていきますという言葉も、十二月二十六日にはそんな挨拶をしてもバチは当たらないのではないか。今年もどーでもいい人が生まれましたという言葉も、一度くらい使ってみたい。今年の流行らなかった言葉大賞の会場は、どんな雰囲気なんだろう。ああ、「ブッチホン」がそうだったのか。プッチモニも似ているから、きっと流行らないだろうと思う。ケーキもお互い顔にぶつけっこすると一石二鳥の名案だ。イルミネーションは電流爆破マッチだ。触ると万病が治る。特にガンにはよーく聞く。バナナワニも効くそうです。でも保護動物。最高ですか。プレゼントには熊の胆が最高。だってピカチュウ。

 それでは皆様、存分にツッコんでください。せーの!
「最高でーす!」
 あんたらがボケて、どうするの。まったく。


戻る            次へ