精霊の島の南十字

 ピーピー・ドン島。笛太鼓で毎日村祭りでもやっているような気もするが、タイ語では精霊の棲む島、という意味である。その名の通り、小妖精が別荘にするために作ったような島だ。切り立った崖に囲まれ、ところどころに砂浜が点在する。遠浅の海岸から歩いてサンゴ礁まで行くことが可能だ。海中を覗けば、小妖精の化身のような、色とりどりの小さな熱帯魚。無力な妖精たちを守るように、ガンガゼが鋭く長い刺を振りたてているのは、ドワーフが武器で威嚇しているかのようだ。

 その海岸沿いに建つバンガロー。さっきまで流れていたバーのムードミュージックも絶え、いま聞こえるのは波の音、椰子の葉の擦れ合う音、それだけ。もう深夜だ。
「静かね」
「みんな寝ているからね」
 南国の夜は早い。みな十時には寝る。そして六時に起きる。日の高くなる前にひと仕事済ませ、暑くなるころには昼寝する。そして夕方にもうひと仕事し、夕食をとる。日本でも明治以前はこの習慣だった。いわばアジアの生活の知恵、といったものだ。
 しかし観光客の私とティナはこの習慣に逆らっている。明日は朝寝坊するつもりだ。

「星がきれいね」
「空が澄んでいるからかな」
 タイでも南部に位置するこの島。日本とは緯度の差が大きい。オリオンが天頂近くにある。大犬座のシリウスも、びっくりするほど高い位置で、その青い輝きを誇っている。
 遠くで漁船だろうか、明かりがともる。それ以外には星しか見えない。

「わたし、南十字って憧れていたの。どの星?」
 ティナは北欧の出身だという。そのためよけいに南のものに憧れるのかもしれない。バナナが露店で20バーツで売っていることに感激し、シーフードレストランの店頭に並んでいる赤や青の魚に感激する。シリウスも見たことがないと言って、その明るさに感嘆していた。南の星座にも憧れていたのかもしれない。

 だが、そう言われてもなあ。私が天文少年だったのはずっと昔のことだったのだ。南十字という言葉には覚えがあるが、それがいつ、どこに見えるものやら、まるで憶えていない。ええと、あれはきょしちょう座だったっけ、みなみのうお座だったっけ? だいたいあれ、夏の星座じゃなかったっけ?
 困惑してぼんやりと空を見上げる。椰子の葉ごしの星空。おおいぬ座の下、見慣れぬ星がいくつもきらめいている。そのうちの明るい星をいくつか見つくろって、十字を作る。四つの星が規則的に並んでいれば、それが南十字だ。

「ほら、あれだよ」
「わあ、本当?」
 本当と言われてもなあ。なにせ即興で作った星座だ。まあでも、南半球の星座は、探検家が適当に作ったいい加減な星座が多い。テーブル座とかカメレオン座とか。それにひとつ付け加えたところで、たいした問題はないだろう。こう言っておけば。
「君のために僕が作った南十字だよ」

 ちなみに、私がこんな歯の浮くような台詞を吐けるのも、ティナが私のために僕が作った架空の存在であるからということは、賢明な読者諸兄には言うまでもないことであろう。


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