社員食堂の憂鬱

 社員食堂にとって、第一に求められるものは何だろうか。
 それは味ではない。値段でもない。ましてや雰囲気でも、レジのねーちゃんの愛想でもない。
「食中毒を出さないこと」ひたすら、これに尽きる。

 私の所属する会社の社員食堂は、かつて食中毒を出した。
 私の入社する数年前だという。
 カニチャーハンが原因だった。
 チャーハンは加熱するから大丈夫である。
 この食品に「カニ」の美名を与えるためのもの、チャーハンの頂上に、申し訳程度に、ほんのひとつまみ添付されるもの、カニのほぐし身がいけなかったのだという。
 どうせ缶詰だったのだろうが、開けたのが早すぎたか、それとも扱った手にボツリヌス菌でも付着していたか、ともあれ「カニ」の美名が不幸を招いてしまったのである。

 カニチャーハンは当日の目玉メニューだったため、社員食堂を訪れた社員のほぼ半数がそれを食べたという。
 全従業員の約3割ともいう。当時1万5千の本社従業員、そのうち4千人以上が食べたのである。
 そのうち、約8割が発症した。
 下痢と腹痛3千人、早退者2千人、通院300人、入院数十人といった惨状であったという。
 この日の会社内のトイレは満員。映画「社葬」を彷彿とさせる騒ぎであったという。

 それ以来、社員食堂のメニューから、カニは封印された。
 エビシューマイはあってもカニシューマイはない。
 オムレツはあってもカニタマはない。
 豆腐はあってもカニミソはない。
 たとえ今期38年ぶり優勝で沸く横浜の大株主、大洋漁業が許しても、この社員食堂が許しません!という意気である。
 何を血迷う、カニの悪魔、おまえにボツリヌス菌が付着していることを、この社員食堂は知っている、という意気である。
 食中毒は2度ない、3度ある、といった意気であったりもする。
 すんません、東映アイドル特撮のネタを使ってしまいました。

 それだけではない。
 「食中毒許すまじ」の精神は、社員食堂に蔓延している。
 何にでも、とにかく火を通す。
 加熱が足りないよりは、多すぎた方がいい。
 「過ぎたるは及ばざるよりずっとマシ」である。

 例えば、親子丼である。
 ふつう親子丼とは、鶏肉やタマネギの上に、どろりと卵を流す。
 卵は半熟の状態で客に供される。
 しかし社員食堂の親子丼では、鶏肉と炒り卵がご飯に載っている。
 すべてを加熱せずにはおれぬ方針なのだ。

 今日のスペシャルメニューは、アメリカンビーフステーキである。
 何故か万国旗が飾られ、アンクルサムの帽子を被ったコックが客引きをする。
 そのあおりで、他のメニューは索漠としたものである。
 しかし。
 ステーキすら、社員食堂は加熱せずにはおれなかったのである。
 ウェルダンを遙かに通り過ぎたステーキ。肉の赤い所などかけらもない。
 表面は炭化して黒くなっている。
 炭火焼きステーキというのは旨そうだが、炭化焼きステーキというのは、不味いものである。

 まあ、大多数の食事を賄う部署というのは、似たようなものだ。
 昔の日本陸軍で、(海軍でもいいけど)新鮮なサバが手に入った炊事兵は、どう調理したか?
 たとえひとり1匹ずつ分けても、魚には大小がある。
 軍隊は公平でなければならぬ。

 そんなときは、鍋にサバを全部放り込んで、ぐたぐたに煮込む。
 ぐずぐずに煮崩れるまで火にかけ、これを等分に分配する。
 うまいわけはない。
 しかし、公平は美味に優先するのだ。
 むろんこんなときも、偉い人だけは新鮮なサバの塩焼きを賞味できたことは、いうまでもない。階級は公平に優先する。

 張り紙によると、アメリカンステーキ祭りは、今週いっぱい開催という。
 さてと、明日から、どこの店に行こうか。


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