サヴァンな人

 天才というのは確かに存在する。私は大学でその実例を見た。

 一人はクラブの先輩だ。彼は頭の回転が早すぎて、我々凡人からみると飛躍しているとしか思えない言動を示す。説明を求めると、彼は辛抱強く(彼にとってみればうすのろに物を教え込むような忍耐に違いない!)その論理展開を教えてくれる。それはまったく正しいものだ。
 彼と同級生の先輩の談によると、一人でいるときは彼はこの上もない沈欝な表情をしているそうだ。それが知人に会うところっと陽気な表情になる。かれはその表情を人前で崩したことがない。崩す必要がないのだ。愚鈍な連中を相手に感情が乱れることはない。最初から愚鈍だとあきらめていれば。表面より深いところでつきあうに足る人間にはまだ会ったことがないのだ。
 彼は(たぶん優秀な成績で)日銀に就職した。おそらく仕事は完璧にしていると思うが、プレゼンテーションの機会にはどうしているかと思うと少し心配だ。プレゼンテーションとは、凡人か、それより少しましな程度の人が一番向いているものだから。

 もう一人は同級生だった。彼はソフトハウスに就職したがほどなく辞めてしまった。仕事が馬鹿馬鹿しかったに違いない。現在無職で、今の所彼の天才の使い道は麻雀に限られている。我々と卓を囲むと、哀れむような目付きで我々の捨て牌を見やりながら打つ。彼にとってみればうすばかが麻雀パイを積み木にしたり口にくわえてよだれだらけにするのを見ている気持ちなのだろう。

 彼ら正真正銘の天才とはちと違うが、サヴァン症候群というものがある。強いて和訳すると、「白痴天才」となる。一般的に知能は低いのだが、ある一点についてだけ天才としか思えない才能を発揮する人のことをいう。
 うすのろだったが6桁の立方根を暗算できたトム・ファラー、知恵遅れだが西暦3200年までの何月何日が何曜日だかたちどころに答えることのできるジョージとチャールズ、白痴で盲人にもかかわらず一度聞いた曲はどんな難曲でもピアノで最演奏できるトム・ウィギンス、そしてわが国の有名な山下清等があげられる。
 不思議なことに、サヴァンは性特異性があり、男性が圧倒的に多い。

 サヴァンの特徴の一つに、異常な記憶能力がある。「忘れる能力」がないとされ、その結果、雑多な記憶が充満し、それを体系づけたりすることがとても出来ない。ボルヘスの小説に、「記憶の人フネス」というまったく同じ能力の人物についての話がある。彼は忘れることが出来ず、その結果大脳の能力の大半は記憶に費やされ、それ以外の知能は低く抑えられている。最終的に彼は記憶の重みに耐えかねて死ぬ。

 ジョンという名のサヴァンはピアノに才能を示し、一度聞いた曲なら正確にピアノで再現してみせた。彼は拍手が好きで、聴衆が拍手しないときは自分でしてみせた。これとまったく同じ行動を私は、TPDのコンサートで穴井夕子に見たことがある。

 サヴァンに似た症状として、アスペルガー症候群がある。サヴァンと異なる点は、知能が普通であること。その症状は、コミュニケーションに感情がこもらない。決まりきった行動の繰り返しを好み、変化を嫌う。記憶力は優秀で、1、2の分野では異常に詳しいが他の分野ではまるっきり学習できない。得意な分野について語るときはペダンティックで内容豊かであるが、実際には喋っている言葉の意味をほとんど理解していない。さて、思い当たる人はいないだろうか。

 サヴァンの一人は、自分のことを、「丸い惑星に生まれた楕円形の魂を持った人間」と表現した。丸い惑星に住む大多数の人間は丸い魂を持っている。彼らには間違って楕円形の魂を持って生まれた人間は片輪にしか見えない。そこで魂にやすりをかけ、むりやり魂を丸くしようとするのだ。当然、魂は小さい丸になる。そこで大多数の人間は、楕円の魂の彼が、「普通の低能」になったといって安心するのだ。彼は、「自分をあきらめて、星のような目をした死体になろうと決めたのです」と言っている。幸運な少数は、楕円のまま生きることを許される。奇人、変人というレッテルを張られて。

 サヴァンと奇妙に相関している例として、人造天才、ウイリアム・シジスがいる。彼は父親に早期英才教育を受け、11歳でハーバート大学に入学した。しかしその代償として、重すぎる精神的負担のためヒステリー症状を起こすようになり、他人との協調がうまく行かず、結局40歳で社会不適応者として死んだ。

 人工的サヴァンというべき人々は他にも大勢いる。相撲取りの大半は自分で切符を買うこともできない。貴乃花のようにしょうもない女にころっと騙される。たまに世間に通じた相撲取りがいると、輪島や北尾のように、「精進が足りない」といわれる。何の精進か。
 将棋指しもそうである。一日中将棋のことを考えていれば、普通の人でも六段くらいにはなれる。それ以上には天才が必要だが。肝心なのは他のことを一切考えないことだ。内藤国雄はそれができなかった。酒や歌や、世間を愛しすぎた。それで彼は「ああ、俺は名人にはなれない」と涙したのだ。
 他にも野球の長嶋など、いくらでも例があげられる。というのも、我々現代人は多かれ少なかれ、環境に過適応したサヴァンなのかもしれないのだ。

 サヴァンの多くは「才能でコミュニケートする」と言われる。才能でコミュニケート!それは言い替えれば、才能でしかコミュニケートできないということだ。しかしそれは何と素晴らしいことか。コンピュータの話しかできないビル・ゲイツ。音楽の話しかできず、日常生活は下世話そのものだったモーツアルト。漫画でしか会話できなかった手塚治虫。エトセトラ、エトセトラ。

 才能はおろか普通の方法でもコミュニケートできない私は、苦々しい思いでこれを書く。

参考文献:「なぜかれらは天才的能力を示すのか」(トレッファート)
     「超能力者の世界」(エドワーズ)


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