寒い寒い寒い朝

 その朝は近来まれに見る寒さだった。ラッシュの少し前の7時頃。駅のホームは、電車を待つひとびとの吐く白い息で、かすかにけぶっていた。
 こういう朝に限って事故か故障で電車が止まり、寒いホームで延々と待たされるものだが、幸いそういうこともなく、すぐ電車は来た。
 この時間なら、まだラッシュにはなっていない。吊革が掴める。文庫本を鞄から取り出して読もうとしたとき、突然思い出した。

 後悔はつねに突然やってくるものだ。

 そうだ、村権じゃないぞ。三国志の登場人物。呉の国王。それは、孫権だ。

 先日、日記を書いたのだが、そこで三国志の話が出てきたのだ。
 そこで孫権のことを村権と書いてしまったのだ。
 いや、うすうす気づいてはいた、何か変だと。
 これって、謝国権みたいじゃないかと、思ったことも覚えている。
 辞書を調べようと思っているうちにそのままになってしまい、そのままサーバに送ってしまったのだ。
 公開してしまったのだ。

 まずい。
 単なる誤字とはいえ、時期が時期だ。
 その前日、とあるサイトの雑文に見つけた誤字について、その人の掲示板で散々からかったばかりなのだ。
「石田ちゃんは光成ぢゃないんでちゅよー。んー、三成でちゅよねー。そいで、毅くんはー、犬飼とはちょこっと違うんでちゅよねー。犬養でちゅよねー」
 などとひどいことを書いていたのだ。
 その、私ともあろうものが。
 あああ、とてもわかりやすい逆襲の材料を提供してしまったではないか。

 しかし、今は電車の中。
 これから会社へ行かなければならない。
 どうしようもない。
 自宅からでないとftp送信はできない。
 ままよ、今日一日は諦めよう。
 夜に帰宅したら、ダッシュで修正だ。

 よくあることで、会社に着いたらそんなことは忘れてしまった。
 家に帰るまで思い出すことはなかった。
 家に帰っても忘れていた。夢で思い出すこともなかった。
 そして思い出したのは、またも朝の通勤電車、吊革につかまってのことである。

 しまった。
 どうして俺って奴は。
 なぜこんな時まで忘れていたのだ。
 なぜこんな時になって思い出すのだ。
 いっそ忘れたままの方がよかったのに。

 今度こそ忘れないぞ。
 今日こそ修正だ。
 との意気込みもむなしく、会社での日常生活の中に、あっさりと記憶は埋没するのであった。

 そして気づいたのは、またも翌朝の通勤電車。
 それにしても、なぜ決まった時刻、決まった環境で思い出すのか。
 一種の条件反射であろうか。

 そして、もうひとつの不幸にも、気づいてしまった。
 まだ、誰にもツッコまれていない。
 だれも、読んでいないのだ。

 駅をおりてよろめくように歩く私のコートを、北風がなぶって過ぎる。

 とにかく寒くてたまらなかった。

 しかし、もっと寒いことを、この文章を書き上げて、雑文祭に登録しようとしたときに気づくのであった。
 朝と夜を間違えていた。


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