「ほとがら貼り札倶楽部」というのは如何でしょうか

 写真には、ずっと違和感を感じてきた。
 写真に撮られるのが大好きな人種がいる。修学旅行や社内旅行のアルバムを見ると、その半分に登場していたりする。
 私はその逆で、写真機を向けられると、わざと知らんぷりして横を向いたりする。集合写真は出来るだけ端に寄る。フレームから切れてくれることを期待して。

 こういう性癖の人は、自分が撮るのも苦手になる。
 デジカメというものを買ったが、年2回の野球旅行のとき使用するのみである。日常的に持ち歩いて、気のついたものを気軽に撮る、という精神状態になれないのだ。

 そういうわけで、手持ちの写真が少ない。
 見合いの時はこれで困った。
 スナップでもいいから写真を出せというのだが、まさか集合写真を出すわけにもいかない。
 酒場で知らぬうちに撮られた写真があるが、どれもこれも赤い顔をしている。これも駄目。
 というわけで、大学時代の写真を提出したのだ。これって詐欺。
 さいわい、駄目人間は顔が変わらない。
 普通の人間は入学とか就職とか結婚とか、そういう人生の節目で心がけが変わり、精神の変化が顔に表れて、それまでと違う顔になる。
 ところが駄目人間は、心がけというものがそもそも存在しない。素のままでのんべんだらりと生きているため、顔も全く変化しないのだ。
 だから小学校の同窓会などで、「よお、○○じゃないか!」などといきなり名前を当てられている人間を見たら、駄目人間と思って間違いない。 

 自分の顔に愛着が持てない、というのも写真が嫌いな理由のひとつだ。
 たまに撮された自分の顔を見ると、なんとも情けない顔である。
 目が小さい。目と目の間が離れている。そのくせ眉はつながっている(犯罪者の特徴だ)。頬骨が出ている。鼻は拡がり、上を向いている。すぐ歯茎が剥き出る。歯茎が充血している。皮膚は脂性である。すぐ眼鏡が下がる。全体の印象としては、哺乳類の顔ではない。蜥蜴か蛙の類の顔だ。
 精神が感じられない。
 有名人に例えると、景山民夫とか高橋源一郎とかラブクラフトとか、そういう人外系の顔である。例えられた人には申し訳ないが。

 さらに、写真というメディアに信頼が置けないのだ。
 だいたい写真という言葉がいけない。
 たぶん福沢諭吉が作った訳語だと思う。(知らない言葉があったら、ゲーテが言い出して福沢諭吉が日本語に訳したとしておけばほぼ間違いない)幕末にはphotographを訛って「ほとがら」と言っていたようだが、こちらの方がよかった。
 なにが「写真」だ。画家は抗議するべきだったのだ。
「ほな、わしらが描いとるのは偽ちゅうわけかい!」と。
 月岡芳年か河鍋暁斎あたりに声をあげてほしかった。

 ただでさえ写真の苦手な人間にとって、最近流行っているプリクラというものは最大の恐怖である。
 プリクラ、プリント倶楽部の略。バンダイの商標登録だっけ? とにかく、南海の楽園だとか娯楽の殿堂だとか(たとえが古いかな)気の浮き立つような写真やイラストをバックに男女が写真に写り、それをシールにするというサービスである。
 むかし観光地でよくあった、桃太郎とか白雪姫とかそういう人物をベニヤ板にペンキで描き、顔の部分だけをくりぬいて、客がそこから顔を出して記念撮影する、そういうサービスの現代版といってもいいかもしれない。
 あくまで、気の浮き立つ背景に脳天気な男女が写っている、という趣旨なので、冬の日本海だとか油まみれの湾岸の水鳥だとか服を燃やされてすっぱだかで泣きながら走っているベトナム少女だとか、そういう気の浮き立たないバックではいけないことは言うまでもない。あったら面白いんだが。
 また、似てはいるが、アイコラという、あられもない写真の顔だけアイドルの顔や知人の顔とすげ替える技術――パソコンの画像処理技術と相まって長足の進歩を見せたが――あれとも少し違う。だいたい用途が異なる。プリクラが親睦を目的とするのに対し、アイコラは個人的使用または中傷を目的とする。プリクラが微笑ましく受け止められるのに対し、アイコラは多くの場合犯罪である。でも、アイコラのプリクラってのも、やれば意外に受けるかも。本人との同意で撮れば犯罪じゃないんだし。

 これは若年婦女子のあいだで爆発的に流行した。それはどうでもいいのだが、そのうち若年ならざる成人婦女子にまで波及した。そのなかには首刈り族の如く、知っている男性全員と写真を撮らずにはおかない、というコレクター精神の権化のような人物もいる。飲み会のあと、ゲームセンターで勧誘されたりもする。岸田劉生みたいなものである。余談だが岸田劉生は知人のスケッチをむりやり描く癖があり、「岸田の首刈り」と怖れられたが、志賀直哉のスケッチだけは描けなかったことをのちのちまで悔いていたという。

 ついに撮ってしまった。
 我ながら情けない顔である。どうみても中途半端である。笑うなら笑う。泣くなら泣く(プリクラで泣いても困るが)。どっちつかずの表情は醜悪である。当惑したような引きつった笑顔が、生来の情けなさを増幅している。笑顔は苦手なのだ。

 誰が決めたか知らないが、写真に撮られるときは笑顔でなければならない、と規則がある。乳製品の名称を呼号してまで、それを強制する人までいる。
 理不尽な話である。
 この規則は、プリクラでは更に甚だしい。
 「男はめったなことで笑うもんじゃない」という教育を受けてきたので、笑顔は苦手である。
 笑っている奴に大人物はいない。
 その証拠に歴史の教科書を見てみろ。誰も笑っていないぞ。国語の教科書を見ろ。みんな真剣だぞ。音楽の教科書を見ろ。夜中に見たら魘されるような怖い顔ばっかりだぞ。
 ひるがえって選挙のポスターを見ろ。全員笑っておるぞ。あやつらは政治家として失格者だから笑っているのだ。小人物だから笑っているのだ。いやいや、笑っているうちに人物がだんだん小さくなってしまったのかもしれない。
 大人物は笑わない。ナポレオンは笑っていないぞ。ベートーベンだって笑わない。夏目漱石は胃痛と神経衰弱でいつも沈鬱な顔をしていた。足利尊氏は無表情だ。シーザーも禿げてはいるが笑っていない。よく笑っていた、などという歴史家の記述はみんな嘘だ。歴史家というのは偉人に嫉妬して、よくそんな嘘を書くのだ。笑っているシーザーの彫像がない以上、シーザーは笑っていなかったのだ。

 そんなわけで私は、男なら苦虫を噛みつぶしているべきだと思う。私が理想とする顔は、たとえば時代小説家の柴田錬三郎のような顔である。男なら、あんな顔でありたい。
 待てよ、そういう顔でプリクラに写る、というのもありかもしれない。
 かえって面白いかもしれない。
 よし、苦虫の練習だ。
 ………あれ?
 駄目人間は笑顔が苦手だが、苦虫の潰し方も忘れてしまいましたとさ。どっとはらい。


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