くだらな日記(2008年11月)


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11月28日(金)
 JR東日本のキャンペーンなのでしょうか、仙台のポスターがやたらにあちこち貼られているのです。「伊達に行きましょう」だとか、「伊達な旅」だとか、「ここにホントの伊達があります」というキャッチコピーで貼られているのです。シグルイを読んでしまった私は、そのたびに、仙台を伊達な人がやたらに徘徊するさまを想像して怖くなるのです。ツアーの者、丁重に扱うべし。斃すことまかりならぬ。伊達にして帰すべし。


11月27日(木)
 「官能小説『絶頂』表現用語用例辞典」(永田守弘編:河出i文庫)を買う。別に使用するわけでも、通読するわけでもないのだが、以前の「官能小説用語表現辞典」(同人編:ちくま文庫)と併せて、買い損なうとあとで後悔しそうな気がして、つい買ってしまう。


11月26日(水)
 自分で自分を苦しめる結果に終わってしまった。


11月24日(月)
 私もだいぶ夢の話を書いてきましたが、俗に「他人の夢の話を聞くほどつまらないことはない」と申します。
 ひとつには温度差の問題があるでしょう。夢を見た本人は、夢とはいえ体験した直後なので、ホットな状態にあります。それに対し聞かされる側は、「どうせ夢だろ。なんでもありだろ」というきわめてクールな状態であります。このホットとクールの大きな温度差が、前提としてあるからこそ、どんな夢の話もつまらなくなるのです。
 もうひとつは夢の主調の問題があります。通常の物語は論理構成で推移していきます。カレーを食ったから辛くなった。崖から飛び降りたら死んだ。ところが夢の主調は情緒です。「急がなければ」という感情で貫かれていれば、勉強していたつもりがいつの間にか寝てしまったり、筆記用具を点検しようとした鞄にGペンのみ3千本入っていてもかまわないのです。情緒を共有できない聞き手にとっては、「なんじゃそりゃ」と言うしかありません。
 その夢の話を、「こんな夢を見た」という書き出しでもって読者に読ませる作者というのは、これはもう、相当な手練れというしかありません。夏目漱石、内田百閨A言わずと知れた物語の手練れであります。
 というわけで、デジタルライフ雑文祭の縛りを、
・文頭を「こんな夢を見た」ではじめる。
 ということにすれば、ただでさえ理知的傾向の強い雑文書きどもは恐慌に襲われ、なんとかして漢字を結んだり開いたり、「こんな夢を見たわけないだろ」と無効化しようとしたりして、苦しみもがくことになると思われます。
 一応念のためですが、雑文祭とは雑文書きを恐慌に陥れたり、苦しみもがかせるイベントではないことを申し添えておきます。


11月16日(日)
 年に1回くらい、昔自分が描いた漫画を読み返すという悪癖があるのだが、読んでみるとひどいな。絵が下手でギャグがつまらないのは今でも同じだからしょうがないとして、昭和天皇崩御をネタに4コマ、岡田由希子投身自殺をネタに4コマってのは人間としてどうよ。


11月13日(木)

脚もげて霜月の蝗虫長生す
            虎玉


11月2日(日)
 「共産国でたのしく暮らす方法」(フェドローヴィッチ、工藤共著:新潮選書)を読む。なんでこう、絶対何の役にも立たないと保証付きの本ほど、読んでて面白いんだろ。


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