予は登場人物なり

 長編漫画合宿というものに参加してきた。
 漫研のOBOGがそれぞれ所持している長編漫画(五巻以上、完結していること、欠巻不可)を持ち寄り、箱根の宿で読みまくろうという、北条早雲が見たら泣くような企画である。
 いや壮観であった。「巨人の星」「明日のジョー」「がきデカ」「綿の国星」等の超有名漫画はどうせ皆読んでいるから、ということであえて持ってこなかったが、それでも「男組」「ハレンチ学園」「タイガーマスク」「ドカベン」「ガラスの仮面(これは完結していないが特例)」「はいからさんが通る」など、いやああんなのあったなあ、というような長編漫画が勢揃いである。

 私はその中の「エロイカより愛をこめて」を23巻読破した。
 これはいわゆる耽美漫画のたぐいであるが、ギャグが面白い。登場人物はすべて25歳以上のおっさんであるが、一般人は信じないだろう。全員が20歳の美女だと確信するであろう。なにしろ、全員髪が長くて睫毛が長いもの。
 これはいわゆるスパイ漫画である。怪盗とNATOの軍人が協力して、ソ連の謀略から西側を守る、といった内容である。怪盗や軍人が何故あんな目立つ格好しているかはどうでもいい。スパイなんだってば。

 10巻ほど読んだあたりからその世界に自分も入ってしまった。
 部屋にはいると何故かテーブルの裏に盗聴器がないか確かめるし、なにかというと他人に指令したくなるし、「ふふふ」などと口の端だけを歪めて笑うし、他人をやたらにアラスカに送りたくなるし、困ったものである。登場人物と自己を同一視してしまったのだ。

 やくざ映画の観客はみな映画館から三白眼で肩を揺すりながら出てくる、と昔から言われている。
 同じように日活アクション映画の観客はみな気障で派手な身ごなしで出てくるし小津映画から出てくる客はみな影が薄くて侘しげだし黒沢映画から出てくる観客はみな小鬢のところがそそけ立っている。
 なら怪獣映画から出てきた客はみなビルを踏みつぶすのか、というのも昔から言われる陳腐な冗談だが、大人には理性があって人間と怪獣の生物学的差異をちゃんとわきまえているので、自分と怪獣を同一視してなりきることはない。しかし、その辺の理性が未分化な子供はやはり自分が怪獣になったつもりで唸ったり存在しない尻尾を振り回したりする。
 そういえば私も高校時代はいっぱしの古生物学少年であり、よくゴルゴサウルスになったつもりで極端な前屈みで大股に歩いていた。あのころの私も理性が未分化だったのかもしれない。たぶん、今も。

 これは私ではないが、知人の女性は少女時代、「未来少年コナン」というアニメーション映画に夢中になった。夢中になったあげく主人公の少年コナンになりきってしまい、家の屋根からだだだだと駆け下りて隣の家の屋根に飛び移る、というアニメのシーンを自分でも再現してみようとした。そして屋根に登ったはいいが人に見つかってしまい、泥棒と間違えられて警察に通報された。警官がメガホンで「降りてきなさい!」と言うのを見た彼女は、今度はルパン3世になりきってしまい、毛布を落下傘代わりにして飛び降りて逃げようとしたのだが、アニメのようにはいかず、石のように落下して両足を骨折した。なかなかあっぱれな女性である。

 映画に限らず、ひとつの世界を構築してそこに観客を引きずり込む力をもつ優れた作品には、すべてこのような「なりきり」を招く力がある。だいたい、作品独自の世界がきっちりと構築され、脇役まで人物の設定がちゃんとしている作品はこの力を持っているようだ。
 小説もそのひとつだ。
 太宰になったつもりでやたら死にたがるが、心中相手の女性がどうしても見つからない。中也のつもりで「ややゆよーん」などと虚ろな目つきで呟いていると、精神病院で抗鬱剤を無理矢理飲まされたりする。安吾になったつもりで酒を飲み薬を飲んで無頼ぶってはみたものの、ただの酔っ払いじゃねえかなどと突っ込まれて狼狽える。ランボーのつもりで書いた詩を焼き捨ててみたが、これが本当につまらぬ詩だったので誰にも復元してもらえない。寺山修司のつもりで家出するが、腹が減ったので家に帰ってコロッケを食う。次に馬券を買ってみるが、これが残念なことに大穴が当たってしまったので詩もなにも書けない。ならばと女風呂を覗いてみるが、新聞には寺山2世でなく出歯亀2世と書かれてしまう。
 こんな文学青年の生態は、たとえ時代は変わっても変わらぬもののようだ。せいぜい、中島らもになったつもりで酒を呷っていたがアル中になれず、とうとう酒豪になってしまった奴が追加されたくらいか。
 私は文学青年ではなかったが浪人時代、ロバート・ネイサンの「ジェニーの肖像」を読み、不思議な少女ジェニーと交流する若き画家になりたくてなりたくて、どうしても作品の世界に入りたくて、現実に戻るのが嫌で嫌で堪らなかったおぼえがある。それってロリコンじゃねえか、などと言ってはいけない。ブンガクなのです。

 漫画にもその力がある。漫画は詩や小説に比べ、絵がある。絵は具体的なメディアであるため、多くの人がその世界に入り込みやすい。しかし、活字という抽象的なメディアを読者が自分の世界に再構築する、その作業から生まれる妄想的なパワーに欠けるきらいがある。ひらたく言えば、漫画おたくは文学青年ほどはた迷惑ではないが数はずっと多い、ということだ。
 漫画のなりきり系といえば、夏と冬に晴海や新都心で行われる同人誌即売会でセーラームーンやるろうに剣心の格好をしてうろついている少年少女を思い浮かべるかもしれないが、彼らはなりきり系ではない。コスプレ、即ちコスチューム・プレイという名の通り、唯の遊びなのだ。月に代わっておしおきする侠気もなければ土方歳三と差し違える勇気もない。夕方になれば学生服に着替えて家に帰り、家族揃ってカレーを食いながらさんまのからくりTVを見て笑う、ごく平凡な少年少女である。

 なりきり系を探したければ会場の中に入るべきだ。「エロイカ」に限らず、耽美系少女漫画同人誌のメンバーは多かれ少なかれ登場人物になりきっている。コスプレというわけでもなく、普段着として凄い格好をしているのがこの手の「なりきり」の特徴である。彼女らの衣服は、他人に見せる為のものではない。あくまで自分がその世界に浸りきるための小道具のひとつなのだ。

 耽美以外では、オカルトもこの手のなりきり度が高い。
 大体この手の漫画は疑似科学系の用語をふんだんに使って読者をたぶらかす手法を使うので、たぶらかされてしまう読者もまた多い。作品が作品だけに、たぶらかされてしまった被害者は耽美どころではない迷惑を発揮する。
 地縛霊がここにもいるあそこにもいると言って回るくらいはまだいい。「ぼくの地球を守って」という漫画がヒットした頃は、ミレアだのフレアだの名乗る少女が前世でアトランティスの大統領だとかお姫様だとか言い張り、悪の力から地球を守るためにやたらに周りの人を覚醒させようとしていた。こうなると文学青年どころではないはた迷惑である。この連中は、大部分は時と共に瘧が落ちたように普通人に戻ったが、重傷者はいまでも新興宗教団体などで活躍していると聞く。

 これまでは女性のなりきりだが、男性はどうか。
 昔は男も剽悍だった。明日のジョーになりきり、漫画が最終回を迎えたときには本当に葬式が営まれたくらいであった。しかし時は移ろい、男性はすっかり軟弱になった。もはや軟弱な登場人物にしか感情移入できないほど。

 軟弱男を感情移入させる軟弱な登場人物を描かせたら天下一品の漫画家がいる。高橋留美子だ。出世作「うる星やつら」の主人公はガールハント(死語?)しか頭にない馬鹿だし、「めぞん一刻」の主人公は大学も就職も浪人してしまうダメ人間。「1ポンドの福音」では減量から逃げるダメなボクサーが主人公を務める。
 こうしたダメ男たちに、なぜか美女が惚れる。主人公よりもずっと二枚目で金持ちのライバルを捨てて、ダメ主人公を選ぶのだ。まさに軟弱男の妄想を漫画化したような作品である。

 いまではそれほどでもないが、少年サンデーで「うる星やつら」、ビッグコミックスピリッツで「めぞん一刻」を連載していた頃は軟弱男どもが二派に割れて大騒ぎであった。「うる星やつら」押井守というそこそこの力量のアニメータの手でアニメ化されて聖典に祭り上げられれば、「めぞん一刻」は主人公の大学生五代の、金もない力もない頭もない甲斐性もないというダメさ加減が同世代のダメ大学生のシンパシーを得て大人気であった。
 どちらかというと、「めぞん一刻」によりダメ人間が集まった気がする。ダメ男たちは、自分と変わらぬ五代のダメっぷりに感動し、いつか響子さんのような美女が自分の前にも現れることを夢見るのであった。かなわぬ夢ではあるが。

 私も含め周囲には、比較級のよりダメ人間が多かったので、「めぞん一刻」のファンが多かった。中には、影響されて主人公と同じ行動をとったりした人間もいる。酒を飲んで泥酔した挙げ句、好きな女性の家の前で電信柱に抱きつき、
「響子さーん、好きじゃあー!」
などと絶叫した奴もいる。ああ恥ずかしい。だいいち、近所迷惑だ。ミレア以上のはた迷惑ではないか。社会的に抹殺されても文句は言えない。え、私?違いますよ。冗談じゃない。してませんったらしてません。馬鹿な。してないったら。

 なんか、今回は旧悪暴露大会みたくなってしまった。
 いや、あの、ゴルゴサウルスとジェニーのことですよ。それだけ。このふたつだけですっ。電信柱はやってませんっ。私ではないっ。してませんっ。やってないっっっっっっっっっっ。


戻る          次へ