モザイク考

 特定の用途にしか使われないと思っていたものが、ぜんぜん別な用途に使用されているのを見て肝を潰す、ということが時にある。例えば図書券を麻雀の支払いに使用する、拳銃を子供の喧嘩に使用する、などということがあるが、モザイクもそのひとつだ。

 日本の呑気な社会に住んでいる私たちは、モザイクとはエロビデオに付属するものだと思っている。そして大体において、忌々しいものだと思っている。ビデオのクライマックスと共に現れ、折角の名場面を台無しにする厄介物、いちばん見たい物を隠す不埒な奴、一般の認識はそんなところではないだろうか。エロビデオを見ていて、モザイクが登場すると喝采する、などという奇特な人はおるまい。
 その常識の逆をついてモザイクが使用された場合、狼狽えることになるのだ。たとえば、死体写真など。海外ニュースなどで戦争や虐殺の映像が流れる。民間人や兵士が殺されている。子供や女性も殺されている。あるものは頭を撃ち抜かれている。あるものは腹から腸がはみ出している。死体ごろごろ。悲惨な光景だ。戦争はイヤだね。ところが、その死体の顔にひとつひとつ克明に、モザイクが施されているのだ。腹からはみ出た内臓にもモザイクが施されていることもある。なんだこりゃ。
 たぶん、あまりにショッキングな映像をお茶の間に流してはならない、という配慮からだろう。けれどもそれが、かえって妙な雰囲気を醸し出す。モザイク=エロ、という公式に慣らされてしまっているため、死体が妙にエロチックなものに見えてしまうのだ。さらに、モザイク=股間を隠すもの、という公式にも慣らされてしまっているので、そんな不浄なもので顔を隠すことを、なんだか不敬のように思えてならないのだ。そしてまた、モザイク=見たくてたまらないものを隠すもの、という公式にも慣らされてしまっちゃっているので、なんだか死体の顔がどうしても見たくなってしまうのだ。なにもそんなことして隠すことはないじゃないか。見せろよケチ。

 またプライバシーに関する映像にもモザイクが登場する。例えば、殺人犯の写真など。ふつうは犯人単独の写真だが、時には集団で撮った写真が使用されることもある。京都の清水寺をバックに、殺人犯が制服を着て、呑気にピースサインなんかしちゃっているのだ。それだけでも妙なのだが、隣に同じ詰め襟の制服の少年や、セーラー服の少女が立っている。たぶん修学旅行なんだろう。そして犯人以外の少年少女の顔が、すべてモザイクで隠されているのだ。むろん、犯人の同級生に何の罪もない以上、プライバシーは守られなければならぬ。みだりに顔写真を流布することは許されない。それはわかっている。しかしながら、隠されているだけによけいエロチックで、よけい不敬で、よけい見たくてたまらなくなるのだ。とくにセーラー服の少女の顔を。ああ、セーラー服とモザイク。こんなにエロチックな取り合わせが他にあろうか。などと、残虐な犯罪について厳粛な考察をすべきところを、セーラー服の少女について好色な妄想をしてしまうのだ。

 そういえば昔、「ヒントでピント」というクイズ番組があった。その中にモザイクを使ったクイズがあった。ある運動をしている映像にモザイクをかけ、何をしているか当てさせるのだ。
司会者「さて、次の問題です。これは何をしている映像でしょう!」
画面、ふたりの人物が動いている。モザイクが荒すぎてそれ以上わからない。
G「はい!」
司会者「早いですねGさん。それではどうぞ」
G「セックス!」
 とやって場内爆笑となったという話が伝えられている。Gとは本人の名誉のため特に名を秘すが、プロボクシングの元チャンピオンで、自民党から立候補したこともある有名タレントだ。ずいぶんと素直な回答だが、しかし確かに、モザイクをかけた画像は全部卑猥に見えてしまう。曖昧な人体がもこもこと動くさまが、どうしても性行為を連想させてしまうのだ。これもモザイクの威力であろう。

 つまりは、エロチックなもの→モザイクで隠す、という公式に慣らされきってしまったため、逆に、モザイク→エロチックなものを隠しているに違いない、という論理が成立してしまったのだ。そのためモザイクそのものをエロスとして認識するに至る。エロチックの対象が、本来の性器並びに性行為から、それを隠しているモザイクに転移してしまったのだ。いわゆるモザイクフェチの誕生である。裸のねーちゃんには何の興味も持たないが、モザイクを見ると興奮する、という奇特な人の出現は近い。そのうち、モザイクフェチの人向けに、「生きもの地球紀行」や「PRIDE・高田対ホイス戦」の映像に全面モザイクをかけたアダルトビデオも販売されることだろう。時代はそこまで来ているのだ。


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