漢字の憂鬱

 パソコンで使える漢字は制限されている。

 特に固有名詞がそうである。使いたい文字が使えないと言うのはなんとも気持ち悪いことである。

 去年死んだ中国の最高実力者は、インターネット上で「トウ小平」と表記された。登の右にりっしんべんの文字がJIS第2水準までに無いからだ。仮にも一国の元首にむかって、不敬ではないか。

 他にも、「内田百けん」などと書かざるをえない場合がある。もんがまえの中に月という漢字が無いからだ。仮にも昭和の借金王にむかって、失敬ではないか。

 森鴎外もカッコの中はメでなく、品だとお怒りの方も多いだろう。仮にも、脚気食因説を排斥し、その結果日本陸軍に脚気を流行らせ、その死者203高地に優るとまで恐れられた殺人医師である。無礼ではないか。

 また阪神の桧山選手も、旧式のJISを搭載したパソコンでは「檜山」と表記されるそうな。なぜかというと、「ひのき」という漢字について、昔は「檜」が正しく「桧」はその簡略体として扱い、前記を第1水準、後記を第2水準の漢字としていた。ところが後に方針が変わり、「桧」こそ正字だとして第1水準に格上げされ、「檜」は第2水準に格下げされた。こういうわけで「檜」と「桧」のコードが、昔と今のJISコードで入れ替わっているのだ。あなたのパソコンで「桧山」が「檜山」となっていたら、ちょっと骨董品である。といっても、2つの漢字がきれいに入れ替わっているので、この段落の文意はどっちにせよ判定できないかもしれない。まあよい。阪神の桧山を知らない奴など。

 私ですら気持ち悪いのだから、本職の小説家の気持ち悪さは格段のものであろう。小説家というのは天の邪鬼が多いので、普段使わないような字を殊更に使いたがるという習性がある。

 特に未だに旧仮名遣いに固執する丸谷才一氏などは、「ゐ」の変換の難しさとともに、旧字体の漢字が使用できなひことに怒り心頭であらう。「新潮文庫の100冊CD」への登録さへも断つてゐるのではなからふか。

 これはそもそも漢字コードに問題がある。

 コンピュータで漢字を扱うためには漢字をコード化する必要がある。
 これまで英数字やカナをコード化していたJISコードなるものに、通産省は1978年に漢字も追加した。これには日本で使用される漢字のうち、第1水準2965字、第2水準3390字が含まれる。
 JISコードなるものはこの後も83年、90年にマイナー改定され、若干の字がコード変更され、その度に印刷屋さんを泣かせていたのだが、印刷屋の涙はこの際無視する。先ほどの桧山選手もこのために泣いているのだが、これは捨て置くわけにはいかぬ。
 また、JISコードをちょっとばかし改変してマイクロソフトがシフトJISなるものをこしらえ、これがメールやインターネットでの数々の文字化けの元凶となっているのだが、ここではその話題には触れない。
 問題は、日本で使われている漢字が、6千や7千ではきかないことである。

 人名、地名の固有名詞にその問題は深い。特に人名は、その人の尊厳にかかわる問題である。
 斎藤さんに「斉藤」という宛名を書いて絶交を言い渡された経験を持つ人もいるだろう。
 澤田さん、渡邊さん、嶋さんもこういう問題には殊のほか厳格だと聞く。
 下条さんは大丈夫なようだ。私の名字は「下条」が戸籍に記述された正式名称だが、幼少の頃、「下条」と「下條」のどちらが正しいか親に問い合わせたことがある。その返事は、
「どっちだっていいんだよ。どうせ明治につけた適当な名字だから」であった。
 しかし、斯様な寛大さを斎藤、渡邊、澤田、嶋氏に求めてはならぬ。彼らは藤原氏に溯る由緒ある名字なのだ。

 斎藤さんもつらいが作家だってつらい。作家にとって文字は商売道具である。
 作家が漢字を封じられるのは、中華料理屋が得意技の、フライパンを強火にかけて具を空高く放り投げて、じゃあっと炎上する、あれを封じられるくらい痛い。
 文芸家協会から何回もこの問題については申し入れがあったそうだが、政府もパソコンメーカーも、この問題については放置していたも同然であった。
 政府の役人は当然無策であった。無策というのは言い過ぎか。一応、99年からJISの第3水準、第4水準を増やす方針らしい。しかし増えるのは5千字程度である。足りるのか。
 パソコンメーカーに至っては「外字」などという姑息な手段で対応するのみだった。これはインターネットで「字化け」の要因となり、顰蹙を買うだけのものと成り果てた。
 しかもJISの第3、4水準は今の外字エリアに置くそうだ。政府とパソコンメーカーの軋轢が一層激しくなりそうだが、とにかく迷惑するのは利用者である。

 私の商売でもよく、「お客様の名前が印字されない」とのクレームが来るが、調べると大概JISにない漢字を外字で無理矢理作っている。そんなこと知らないプリンタは無情にも通称「ゲタ」という黒い四角を打ち出すのみだ。97年から外字の使用はJISとしては禁止しているのだが、背に腹は換えられないらしい。99年以降はどうなることやら。

 この混乱と無策を見かねて、敢然と立ち上がった団体があった。
 やはり日本でなく、外国の団体であった。
 あまたある漢字を一挙にコード化し、しかも全世界の言語をひとつの体系のもとに統一してしまおうという、無謀というか蛮勇というか、ボルヘスあたりが喜びそうな試みである。いわゆるユニコードである。
 しかし漢字を知らない欧米人が主導であったため体系作りが妙チクリンであり、しかも日本の漢字も中国の簡体字もアラビア文字もヘブライ文字も収めようとするには、用意した文字数をはるかにオーバーすることが瞭然となってしまった。やむなく当初の体系を放棄し、字数を無理矢理増やした。(どうもこの話題は、「無理矢理」が多い)JAVAはユニコードを採用しているが、JAVAの日本語環境がタコだと言われるのは、あるいはこのせいか。
 いまやユニコードの生命も風前の灯火である。

 TRONという日本独自のOSでは、また独自な漢字コード体系を作っている。
 方針としてはJISのような「標準以外の異字体は排除」ではなく、なんでもありで、3人以上の希望があれば登録する方針を採っているらしい。歓迎したい方針である。
 ただ、トンデモな人が3人集まってトンデモな漢字を登録することを私は危惧する。
「これは神代のヒエログラフに残された世界最古の文字ですから、ぜひ登録を」
「これはUFOの着陸跡を意味する漢字です」
「今使われている『日本』という字は、ユダヤが日本人を去勢するために萎えたペニスの絵が隠されている。ユダヤの陰謀を打破するためには、この字を新しく採用するしかない」
「この漢字を書いた紙をフロッピードライブに挿入すると、植物さんが『イエース』といいます」
 云々。
 それに、いかんせんTRON自体が少数派である。

 ユニコードでもいい、JISの第3水準でも第4水準でもいい、トロンでもポロンでもいいから、早く内田百間などという非実在の人物名を書かなくてもいい世の中にしてくれ。


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