ああ自販機

 小説を読んでいてそこに登場する食い物が旨そうで旨そうで、自分でもそれを食べたくてたまらなくなることはよくあることだが、雑文にもその力はあるらしく、そこに登場する料理を食べたくてたまらなくなったのである。時は午後9時。長く単調な仕事から逃避してインターネットを徘徊していたのである。
 その料理とは茗荷と茄子の即席漬け。それぞれを細く刻み、塩でもんでしばらく冷蔵庫に放置する。それだけである。しかしながら塩が野菜に及ぼす作用、そしてそれが冷暗所で時間の経過とともに変貌していく様ときたらおどろくほどで、大根を賽の目に切って塩と味の素をまぶしただけのものが酒のつまみとして絶大な力を持っていたりするのである。セロリを細く切って塩をつけただけで十分ウィスキーに対抗しうるのである。
 あああ、茗荷か、茄子か、食いたいなあ。ビールによく合うんだろうなあ。ぐびぐび。今、どっちも安いんだよな。ようし、今日は即席漬け。ビール。これっきゃない。
 そっと時計を見る。まもなく10時。これから帰ったら、11時に間に合うかどうか。茗荷と茄子は大丈夫だ。駅前のスーパーは12時半の終電まで開いている。問題はビール。駅前の酒屋は10時半に閉まるので、もう間に合わない。自販機だ。しかし、これも11時まで。ううむ、間に合うか。いや、間に合わせましょう!
 そうと決まったら仕事を整理だ。明日でもかまわない仕事は明日に延ばして。ええと、これとこれは今週中で大丈夫。これは明日の午前中で間に合う。これはとりあえず形ができたから。おやおや、今日の仕事はなくなっちゃったい。失礼します。お先に。10時5分。

 電車は幸い遅延も痴漢もなく順調に進んだ。電車を降りるときにちらりと時計を見た。10時52分。あと8分の間にスーパーで茗荷と茄子を買って、自販機まで歩いて、そこでビールを買わねばならぬ。スーパーの滞在時間は5分以内であることを要す。
 毎日行くスーパーなので、茗荷と茄子の位置は熟知している。品切れなどというギャグもなく、さっさとカゴに入れる。さあ買うぞ。10時55分。
 ところがレジが混んでいた。どこの列も5人くらい並んでいる。ううむ。ともかく前の人のカゴの内容量をみて、一番少なそうなとこに並ぶ。
 ところがレジ係が新人だった。男が立っていることから判断するべきだったのである。レジ係のベテランは、例外なくおばさんなのだ。レジ係をやっている男は、手が足りなくなってかり出された店長クラスか新人の教育で、どちらも手が遅いのである。
 真っ正面に掛けられた時計が時を刻む。あああ、あと4分。3分50秒。3分45秒。私は心の動揺を隠し、しいて平静を装い、立っていることしかできなかった。無力な私。

 ともかく精算を終える。品物を乱暴に袋に突っ込み、カゴを戻す。10時58分。急げ自販機へ。待ってろ自販機。
 ともかくも急いで自販機の前に立つ。幸い、まだ買えるようだ。ええと、何にしようかな、よしブラウマイスターだ。もちろん500ccだ。310円。
 財布を開けて金を探す。100円、200円、10円、……ええとこれは、違った、五十円玉だ。
 あと100円がない。細かいけどいいですか、と機械に聞く馬鹿はおるまい。さっきの五十円と、十円玉は1、2、3、4、ええと……あ、あった。
 金を投入する。焦っているので手が震えてうまく入れられない。いいえ違います、アル中じゃありません。心配しないで。
 さあ全部入れたぞ。早くランプよ点け。
 ……つかない。なぜ?
 金額表示は「210」である。
 百円玉がひとつ返金されている。
 偽物じゃないのに。選り好みはいけないんだぞ。好き嫌いなく全部食べなさい。
 などと機械に説教しながら、もう一度百円玉を入れ直す。
 説教が功を奏したか、今度は受け入れてくれた。やればできるじゃないか。先生は嬉しいぞ。
 ぴっ、と音がして、ランプが点灯。
 押すのだ!
 ……出ない。

 さっきの音は、販売中止のランプが点灯する音なのであった。
 なんだよ、ここまで入れさせといて、そりゃあないってもんじゃないかい。これじゃあ蛇の生殺しだよ。ここまで入れちゃえばもう最後までやらせろよ。なあおまえ。
 などと機械に懇願したくなったが、人目もあるので、やむなく返金レバーを押して金を戻す。
 俯いてとぼとぼと買えろうとした私の後ろに、人がいた。

 その女性は順番を待っていたのであった。
 そして、買えなかったのであった。
 微笑めば周囲が和やかな雰囲気に満たされるであろう。そんな女性。
 美しい、と言ってもさほど誇大な表現ではない、という微妙なところに位置する風貌である。
 それが今は、憎悪しか見えない。
 鬼のような形相で私を睨んでいる。その目つきは、どう見たって、酒のない空虚な夜を過ごさざるを得なかった責任は全面的に私にある、という目だ。

 お嬢さん、微笑んで。
 怒りは君に似合わない。
 お酒がないのかい。
 それなら僕の家へ来ないか。
 とっておきのカクテルを君にあげよう。
 そして夜は、終わらせない。

 などと女性に語りかけよう、と思いながらも、おめぇも酒ないじゃんか、とふと気づき、怒れる女性の視線を避けるようにとぼとぼと、いっそう肩を落として帰途につくのであった。


戻る          次へ