画廊伝説

 電話の声は妙に朗らかなのであった。そして熱心なのであった。女性なのであった。
 一昨日電話して待ち合わせたのに、と私をかき口説くのであった。昨日、お待ちしてたんですよぉ。どうしたんですかぁ。
 恋人でも出さないような甘い声で、そのお姉さんは私を怨じるのであった。なんともはや。

 記憶している限りではそのとき私は酔っていた。メモ帳に書いている電話番号と店名の字の歪みがそれを物語っている。そしてそれ以外の記憶は、私にはない。
 どうやら画廊の人らしい。そして、私に是非来て欲しい、と誘いかけるのであった。仕事帰りにぜひ寄ってください。ぜひぜひ、来て欲しいんです。なぜそんなに熱心なんだよお姉さん。美術活動に邁進してるのか。シュールレアリズム運動の一環か。日本画の復興に燃えているのか。ゴッホの一族か。ゴーギャンのモデルか。ミレーの末裔か。ダリの孫か。デルヴォーの陰毛か。写楽の本名はシャイロックか。
 仕事帰りなどと、馬鹿なことを言ったものである。酔いながらも無職を隠す自分の未練に苦笑しながらも、たゆまず話し続けるお姉さんから、ともかく記憶を蘇らせることに専念した。
 画廊らしい。原宿にあるらしい。風景画、抽象画、ポップアート、アフリカ・ラテンアメリカ美術、なんでもありらしい。割と節操がない。
 画廊には二種類ある。画家にホールを貸しだし、その貸料で運営する画廊と、絵を売ることで運営する画廊。どうやら、その後者の方らしい。

 そこまで聞いて、世事に疎い私も、どんな種類の勧誘かを薄々悟ってきた。これはあれだ。二人がかりで絵を売りつけるつもりだ。新選組もびっくりの戦法だ。
 若い方が泣く。この絵、お客さんのために描かれた絵なんです。運命の出会いって、信じませんか。そんな。買わないなんて。よよよ。そして年増が宥める。駄目よそんな強引に勧めちゃ。お客さんに失礼でしょ。でもねお客さん、この子の気持ちも分かってください。純粋に絵を愉しんで欲しいのです。たった○○万円ですよ。ぜったいお買い得ですって。将来、絶対値上がりしますよ。
 あたかも容疑者を自白させる刑事のごとく、時間をかけてじんわりと落としにかかるのだ。老刑事は窓の外を眺めながら、つぶやくように歌う。う〜さ〜ぎ〜お〜いし、か〜の〜や〜ま〜。若い刑事は手袋を突きつける。これは、お前のだな。お前がやったんだな。そうなんだろ。そして私はカツ丼の汁にまみれたご飯粒を鼻から吹き出しながら、号泣するのだ。

 待ってたのにぃ、とお姉さんは優しく朗らかに私を責める。約束したのか。そうなのか。どうやら、じゃあ明日七時に行く、などと適当に口約束してしまったらしい。
 法律は味方だ。あの時の私は、優に心神喪失状態を勝ち取ることができる酔い心地だった。しかしこのお姉さんに法律は通じるのだろうか。とにかく約束を破ったという弱みがある。優柔不断にもごもご言っているうち、結局のところ、とどのつまり、案の定、土曜日にそちらに赴くむね、ふたたび約束が成立してしまった。

 長い長い電話を切って、私は困惑する。私は押しに弱いので有名なのだ。洋服屋でも、店員の勧めるまま買ってしまうのだ。レストランでもシェフのお薦めを食う。やはり酔っぱらったときに勧誘員が来て、読売新聞を取らされてしまったこともある。あれは痛恨事だった。
 きっと絵というものは何十万円もするものだろう。金がない、といってもローンなど組まされてしまうのだろう。いかん。断じていかんぞ。買ってはいけない。絵は環境によくない。私の金銭環境がひじょうに悪化します。雑文一回のネタで済ますには、あまりに高すぎる買い物だ。
 ああしかしお姉さん二人のゾーンディフェンスを抜けて、この私が帰還することはできるのだろうか。怖いお兄さんも加わったりしたらどうするのだ。胃が痛い。
 最初に無職だと言っておけば、こんなに勧誘されることもなかったのに。ああ見栄って怖い。


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