ぼくの海

 来月には韓国の済州島へ行くってのに、こんなにヤバい状況なのに、オラなんだかすっげえワクワクしてきたぞ!
 というわけで、昨今の韓国の動きはなんかヘンだ。日本も妙に反応してヘンだ。領土問題ってのは、ナントカの日を勝手に制定したり大使館前でデモしたり感情的な罵言を言い散らしたり、そんなことでどうにかなるもんじゃないんだよ。日本の右翼が北方領土をめぐってやってること見れば、それがわかるんじゃないのか?

 かつて倭人、倭族と呼ばれる人間集団がいました。このときまだ倭人は、日本国民を意味しませんでした。日本どころか、国家なんてものも、どこにもなかったからです。いや、中国の内陸では後漢という国がありましたが、まだ倭族の居住地までは勢力がおよんでいなかったのです。
 倭族は中国の山東半島から揚子江にかけての沿岸部、朝鮮半島の南部、九州あたりまで分布していました。彼らの特徴としては、背が低いこと、よくハダカになって水に潜ること、その身体にイレズミをしていること、などがありました。水を怖れ、肌を晒すことをいやしむ内陸の漢民族からすると、ハダカで水に潜る倭族は原始人とアザラシの混血のように思えたのでしょう。

 やがて中国では後漢がほろびて三国志の争いがおき、魏という統一国家が誕生し、晋へとうけつがれていきました。魏と晋は、どんどんと近隣をわがものにしていきました。山東半島の南に棲んでいた倭族は、あるものは中国に服属して漢民族に同化し、あるものは朝鮮南部や九州にいる同胞のもとに逃げていきました。
 中国の圧力は朝鮮半島にも及びました。朝鮮の北部に棲んでいた朝鮮人は、中国の武器や文化を受容し、中国と同じような国家組織をつくり、中国にあるときは服従しあるときは対抗する道を選びました。朝鮮人の勢力は南下し、百済と新羅という国家をつくりました。倭族は南の端に押し込められ、かろうじて任那という国家モドキをこしらえました。
 九州にいた倭族も、中国や朝鮮の影響を受け、やがて西へ勢力をひろげ、ヤマト朝廷という国家をこしらえました。同族のよしみで、任那とは一心同体でした。むかし、任那はヤマト朝廷の植民地だったとか、いや逆にヤマト朝廷こそ任那の出先機関だとか、論争がおこなわれていましたが、無意味な話で、つまりはもともと一心同体の倭族だったわけです。
 しかし任那の寿命はながくありませんでした。どうやら寄り合い所帯の部族国家だったようです。日本でいえば倭の五王の時代、蘇我族や葛城族や天孫族や出雲族がごちゃごちゃとまとまったり喧嘩したりしていたのに似ていたのでしょう。王の命令に全国民が従う、新羅や百済のような国家にはとうていかないませんでした。ずるずると領土を奪われていき、六世紀のなかごろには滅んでしまいました。

 このころ済州島は、耽羅という、ちっぽけながら立派な国でした。この島国も倭族が棲んでいました。済州島の伝説では、人間が住んでいなかった済州島に、あるとき三人の若者があらわれ、海のかなた碧浪国からきた三人の娘と結ばれ、この子孫が済州島の住民となった、というものがあります。「高麗史」では、娘たちは日本から来たと、はっきり書いています。おそらくこの伝説は、倭族と朝鮮人の婚姻によって、済州島の社会がつくられていったことを示すものなのでしょう。
 任那が滅んだあとも、耽羅は百済、ついで新羅に服属して、なんとか外交努力で国家を存続させようとしました。しかし、新羅の力は強く、もはや完全な属国扱いでした。いちおう形だけの国家としては、十二世紀のはじめ、高麗に併合されるまで続いていました。
 国家としては朝鮮人に乗っ取られたような済州島ですが、文化は倭族のなごりを残しています。そのひとつが海女です。倭族の伝統として、ハダカで海に潜り、アワビやサザエなどを取ってくる、漁業ともいえないような生業が、いまでも済州島では行われています。明治から昭和にかけて、済州島の海女は伊勢志摩や三陸海岸まで出稼ぎに行っていたくらいです。

 やがて時は流れ、日本と朝鮮半島は、おたがいべつべつの国家としてべつべつな道を歩むようになりました。ケンカしたり仲良くしたりしながら。
 対馬は日本と朝鮮のあいだにある島です。晴れた日には、対馬から朝鮮半島を見ることができます。発掘された土器からみると、大昔からずっと九州の倭族文化の影響のもとにあったことがわかります。元寇のときモンゴル軍に占領されたり、室町時代に朝鮮軍に占領されたり、幕末にロシア艦隊に占領されたりしたことはありましたが、そのときも対馬は、日本に助けを求めていたことからも、対馬の人が、自分は日本に所属する、と感じていたことはまちがいのないことです。
 江戸時代のころ、対馬は宗氏という大名がおさめていました。対馬海峡をへだてて朝鮮半島までわずかな距離の島ですから、しぜん朝鮮との交流も盛んでした。朝鮮からの使節が江戸へ赴くときは、まずこの島でひとやすみするのです。
 また対馬は隣の壱岐とは違って、米のとれない島でした。宗氏は十万石といわれていますが、漁業や貿易による利益を米に換算するとそうなる、という意味でした。したがって日本の産物を朝鮮に売る、逆に朝鮮の産物を日本に売る、そうした交易をしないとやっていけない島でした。そのためにも、朝鮮とは仲良くしておく必要があったのです。
 だから宗氏は、幕府の許可を得たうえで、朝鮮の王様にみつぎものを献上したりしておりました。なかよしのしるしとして、プレゼントを贈っていたのです。そのお礼として、朝鮮の王様から官位をいただいたりしました。いまでいうと、学校に寄付したのお礼に名誉学位をもらったり、両国の修好につくしたお礼として勲章をもらったりするようなものです。

 これを後の世に珍解釈する人が出てきました。李承晩という、大韓民国の大統領です。かれは、「みつぎものを献上するというのは服属のしるしだ。朝鮮王から官位をもらったからには王の臣下だ。つまり対馬は朝鮮の属国であることを認めていたわけだ。だから対馬は歴史的に朝鮮のものなのだ」と言い張り、対馬をよこせ、と日本に要求しました。
 むろん、これは間違いです。もしこの論理が正しいのだとしたら、かつて聖徳太子は隋の皇帝にみつぎものをささげたのですから、日本は中国領だということになります。それに朝鮮も中国にみつぎものをささげていましたから、朝鮮も中国領だということになります。官位をもらったら臣下だというなら、日本の勲章をもらったガリ国連事務総長は日本の臣下で、全世界は日本のものだということになってしまうではありませんか。
 そもそもだいいち、贈り物をしたら家来だと認めたことになるといえば、お中元やお歳暮や、誕生日のプレゼントも、おちおち贈れやしないではありませんか。

 竹島というのは島根県、隠岐島の北西にある島です。さらにその北西には、鬱陵島があります。昔から、鬱陵島は朝鮮がおさめていました。ただ逃亡した犯罪者や税をおさめない人間が逃げこむことが多く、また倭寇といわれる海賊によく襲われることもあり、朝鮮の人間が移住することを禁止していました。
 竹島は鬱陵島よりずっとちっぽけな島ですから、人が住むこともできず、朝鮮も放置していました。日本の漁師がそこに船をとめてコンブやイカを取る程度でした。政治的には、鳥取藩の領土として取り扱われていました。
 ところがちょっとややこしいことに、江戸時代、鬱陵島は竹島と呼ばれていました。いまの竹島は、松島と呼ばれていました。これで勘違いして、「竹島は朝鮮領だ」と主張する人もいましたが、その竹島は鬱陵島なのです。幕末のころ、徳川幕府は朝鮮と話し合いをして、鬱陵島(竹島)は朝鮮のものだから日本人は行ってはならない、けれど竹島(松島)は日本のものだからかまわない、と決めました。
 これに関して、いま、日本と韓国のあいだで紛争が起こっています。たがいに自分に有利な文書をもちだし、この島はうちのものだ、と主張しています。
 国家というものが存在する以上、領土争いがなくなることはないでしょう。これはしかたありません。しかし、領土争いというものは、感情的な罵言やデモや居座りや馬鹿騒ぎで解決することはありえません。冷静な話し合いと、第三者による調停で解決されるべきでしょう。あるいは、残念ながら戦争で。

 もとは同じ海の民だったものが、ちっぽけな領土をめぐっていがみあうのは哀しいことだ、と思うのも、これも感情的な夢想に過ぎないのでしょうか。


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